彼女はわざわざ喫茶の引き出しにあるコーヒーカップへと、受付の珈琲を並々注いできてくれた。スペースの奥はバーカウンターになっており、サトルをカウンターへ座らせた。
「はい、どうぞ。少々お待ちくださいね。今、ライト点けますから」
白石さんがカウンター内に入りスイッチを押す。オレンジの淡い灯りが点った。カウンターの棚には数十種のリキュールやスピリッツが整列し、映画のワンシーンのように格好良かった。
「あら、洗い物が置きっぱなし。まずいまずい」白石さんは顔をしかめる。
小気味良いジャズが遠くから流れてくる。彼女は、音楽に合わせるようにして溜まっていた皿やグラスをカシャカシャと洗っていく。頂いた珈琲に口をつける。挽きたての香ばしさ、軽い口当たりと柑橘系のような酸味がサトルの好みだった。深く一息をつくと、白石さんと目が合った。
「お疲れなんですね」
サトルはハハっと苦笑する。
「ばあちゃんの為に休みを取ったつもりだったけど、僕自身少し休みたかったのかもしれません」
「ヨーロッパでは休暇の為に働くのが一般的らしいですよ」
「それはつまり?」
「労働は人生の一部であり、家族や気の置けない友人と過ごす時間が大切である、と私は解釈しています」
「そうかもな。少し働きすぎました、きっと」
「お気に入りの音楽を聴いたとき。読みかけの小説をめくるとき。夜、バーの片隅で珈琲を啜るとき。世間の人が余白だって呼ぶかもしれない、それらの時間が豊かさをもたらすこともあると思います」
「まさに今ですね」
東京にいると、日々は仕事に忙殺されている。ただそれが苦痛だとは思わなかった。周りの人間もみんな似通った環境だからだ。スケジュールが埋まることが、いつしか不安を埋めるようになった。走り続けて、地位や給与が上がった。盆も正月もなかった。携帯を持っていないばあちゃんと話す機会は、たまに地元に帰った時に話す程度になった。
前回帰ったときにこの宿に行きたいと言われた、半年も前のことだ。「おう、じゃあ今度行こう」と約束をしたのを覚えている。だけど、すぐに日々がそれを忘れさせた。
一か月前母から電話があり、ばあちゃんが楽しみにしていると言われた。スケジュールの都合がつかなくてと言った俺に母は諭した。
「無理はしなくていいけど。もうそんなに会えるわけじゃないんだから」
本当にどうして大切なことを忘れたふりが出来るんだろう。持ち時間には限りがある。
スケジュールは無理やり空けた。自分にも嘘をついていた、仕事は休める。休むことでうまれる空白が怖いんだ。人と同じ速度で歩いていないと怖かった。
「今日ここに来れてよかったと思います」
カップの中に自分の顔が映っている。息を吹きかけるとブサイクに歪んで少し笑えた。
「サトルさんって小一の時何してましたか?」
白石さんが唐突に切り出した。小学一年生。いきなりでぼんやりとしか浮かんでこない。
「じゃあ中一は?それか高二」あー、部活かな。断片的な記憶が蘇る。