「申し訳ありません。館内は原則携帯電話の使用は禁じられております。喫茶の右手に専用の部屋を設けておりますので、必要な場合はそちらで通話やインターネットの利用をお願い致します」
「すみません。知らなかったです」
「ふふ、先ほど説明しましたよ」
「重ねて申し訳ないです」サトルは頭を掻く。
「もしかして、サトルさんは当ホテルをご存じなく予約されたのですか」白石さんがおずおずと訊いてくる。どういう意味だろう。サトルは言葉を詰まらせた。
「在では、自分へ還る事を第一に考えております。携帯はもとより外部との連絡を遮断し
自分自身と向き合うこと。また、独自のAR技術を駆使し宿泊者のメモリーを任意で記録、再生できます。再び来て戴いたお客様は過去の自分を追想することでまた自身と向き合います」
???、サトルは困惑する。
「また、堅苦しく話してしまいました」仕事に熱があり真面目なんだろう。サトルは彼女の姿勢には好感がもてた。
「わたしは、在にいらっしゃるお客様には余白を提供したいと考えています。日頃の忙しさ、時間のなさ。あり過ぎる情報量から少しだけ離れて、ぼおっと過ごす。その時心に湧き上がる思いだったり、立ち止まり振り返る人生にも、また意義があると思っています」
「そういうものなのかな」
立ち止まったら追い抜かれる。サトルの世界は目まぐるしく動いていたし、彼には休んでいる暇はなかった。でもそれが当たり前だった。
記録、メモリー、ばあちゃんも昔ここに来て思い出を残したんだろうか。そう考えると合点がいった。加齢で足腰も弱っていた事をサトルなりに気遣い、旅行なら県内にしようと何度か提案したが、節子はこのホテルに拘った。高速に乗れば片道三時間。悩んだが、体力の様子を見ながら向かうことに決めた。
「ばあちゃんはここに来たことが?」
「ええ。以前一度。節子様の、当時の記憶が眠っているのかもしれませんね」
「ありがとう」サトルは白石さんに礼を言い、部屋へと引き返した。
ドアノブを握ったサトルは躊躇った。部屋の中へ聞き耳をたてるが、中は静かだった。
「ばあちゃん戻ったよ」わざと大きな声を出し部屋へ入る。とりたてて変わった様子はない。
「あら、おかえり。どうやった、館内は」
節子がポットの湯を湯呑へと注ぐと、抹茶の香りが室内にふわりと広がった。
「あんたも飲むね」
「ああ、もらおうかな」そういえば珈琲を飲まずに戻ってきてしまった。
茶を介すと不思議に心が落ち着き、ふたりの間には豊かな沈黙が流れた。揺れる木々、風の音が聞こえる。
「至る所にばあちゃんの好きそうな絵があったわ。ゴッホ、モネ、マティス、ダリ。俺はあんまり詳しくないから解らないけど、どれもこのホテルに飾ってあると嫌味がなくていいね」
「じゃああとでゆっくり観ようかしらね」