「良かったら私達と一緒に動かない? 一人じゃ心細いでしょ」断って一人自分の部屋に戻る勇気はもうない。
「良いんですか?」
「私達も若い子いた方が頼もしいし。ねえ、英さん」
英さんと呼ばれたその中年男性はひたすら顔を自分の顔を揉みくちゃにしながら遊んでいる。鏡に手形が浮かんでうわーッと叫んだりしている。それにまた私も驚く。
「この人は、私の兄なの」
「ご兄弟なんですか」
「小さい頃から一緒にテーマパークにはよく遊びにいったものね」
英さんはろくに返事もせず、どこからともなく缶ビールを取り出すと飲み始めた。
「英さん、もうあんまり飲まないでよ。これからなんだら」
「ファンタジーには酒じゃい酒じゃい」
とよくわからないことを言ってがぶがぶと飲み始めた。私はふと多田の「おふくろ」という言葉を思い出した。
「……ご結婚はされてるんですか」
「ん? どうして?」
「い、いや、私てっきりご夫婦なのかと」
「はは。結婚は昔の話ね。私にはもう家族なんて持つ資格がないのよ。息子が一人いたんだけれどね。夫が暴力的な人で逃げちゃった。夜な夜な出て行こうとしたら玄関でたまたま息子に出会っちゃって、『どこいくの?』っていうから『ちょっとお買い物ね。眠っときなさい』ってどこもお店なんてあいてりゃしないのにね、嘘ついて飛び出したってわけ。で、その先がこの酔っ払いの経営する工場だったの。彼は自動車整備工場の経営をしててね、私が事務周りを手伝うからって、それでずっとそのままよ。十年経った今でもあの日の息子の目は忘れられないわね」
「ごめんなさい。思い出させてしまって」
「謝ること無いのよ」
「私、今、会社から逃げてて」
「あら、休業中?」
「まあ、そうなってたらいいんですけれど、一方的にと言いますか」
「良かった。逃げられて良かった」
「へ?」
「何があったのかは分からないけれど、あなたが逃げている途中がここにあるのなら、良かった」
と私は突然、潤子さんに抱擁された。
「なぜなら、今私はこうしてあなたを抱きしめることができるからね」
私の頬を何故か涙がつたった。涙がつたうほど、状況を理解できているわけでもないのに。
「今頃、あの子もあなたぐらいの年齢なんでしょうね」
私は思わず、息子さんが来てますよと言いそうになったが、出逢うことが最善なのかどうなのかが分からなかったので黙ったまま静かに泣いた。そういえば人の肌に触れるなんて久々だ。
「『フロントに電話しろ』つったってつながらんじゃねえか」
英さんが受話器を耳にあててぶつくさ言っていた。よく見ると電話線が切断されていた。
405号室。部屋で一人タバコを吸ってスマフォを眺めているのは多田。スマフォ画面には笑顔で映っている多田と母・潤子。そこへ突然ノックの音がする。
「え? そんな演出ないっしょ」