「半信半疑っすよ。潤子って、どこにでもありそうな名前ですから。でも、あれは間違いないっす。大人はあんまり顔が変わらないっすから」
「話したいの?」
「いや、別に。俺のことなんて覚えてないっすよ。あれも何人目の男だか」潤子は中年男性の腰に手を回して、身を寄せ合っているように見えた。
306の扉を開くと、乱れたままの布団、煤けたカーテン、血のプリントされた壁、電球の切れかかったトイレなどが私を待ち構えていた。やっぱり一人はきついなあ、と恐る恐るベッドの端の方に腰がけると、ベッドが振動し部屋中に女のうめき声が響き渡ったので、全力で部屋を飛び出し、行く先もなくエレベーターの前に立ち竦んだ。徐に手渡されたスマフォ画面を見ると『到着したらフロントに電話を入れよう』と陽気な顔をしたドン・ウルフが吹き出しと共に言っていて、また部屋に戻るのは嫌だなあと途方に暮れているとエレベーターが開いた。エレベーターから出てきたのはさっきの潤子さんと中年男性だった。思わず悲鳴をあげて腰を抜かした。
「ごめんなさい、驚かせて」という潤子さんに、
「こちらこそ、すいません」と、返し立ち上がった。
「僕の顔、よくカピバラ似てるって言われるんですよ。わーっ」
という中年男性の茶化しに私はまた腰を抜かしてその場にしゃがみこんでしまった。
「ちょっと、あなたやめなさいよ。カピバラはお化けでもなんでもないじゃないの。ほんとごめんなさいね」
「今夜はたのしもうねー」
中年男性は酔っ払っているのか、潤子さんに身体を支えてもらいながら、私が逃げてきた方向に歩いて行った。これからどうしようかと、突然スマートフォンが振動し、画面に『接近中』の文字が現れた。なんだこれと、エレベーターの方に目をやった瞬間、今度はあのピンクのウサギが立っていた。ホラー映画女優顔負けの悲鳴をあげ、一目散に潤子さん夫婦のもとに追い付き、結局、308 号室の部屋に一緒に逃げ込ましてもらった。
ピンクのうさぎは外見は可愛いらしくとも人肉を食べる猟奇的なキャラクター・ピンクラビットとしてテーマパークでは定着していた。多田がアルバイトで被っていたのはそれだったのだろう。ホテル館内ではピンクラビットが一匹徘徊していて、掴まれば一階にある『The Last Supper』というピンクラビット達が働く洋食レストランで監禁されることになる。そこでたらふく食べさせて太らせた人間を、ピンクラビットが最後に食べるという設定で、中にいる人間は自由に飲み食いができるが脱出するには、ピンクラビットを騙すための支配人外出承諾チケットというものをアプリゲームのクイズを解いてゲットしなければならない。もしくは外部の人間がレストランのエントランスにて身代わりとなって入ることも可能である。最後まで(翌朝の 6 時まで)ラビットに捕まらず、ミッションをクリアしたポイントで順位付けされ、上位五名には豪華プレゼントが用意されている。ラビットが近づくとスマフォがバイブレーションで教えてくれる、云々。テーマ―パークのファンで、三年前にも一度参加したという潤子さんは私に聞き逃した分のゲーム概要を懇切丁寧に教えてくれた。女のうめき声を気にも留めず、散らかった布団を綺麗に畳みながら潤子さんは私に「お座り」とベッドに場所を用意してくれた。中年男性は鏡をみながら顔を歪めて遊んでいる。
「お姉さんはお一人?」
「まあ……はい」