会社を辞めた。と一方的に決めつけた私は、今、走っている。家賃五万三千円の賃貸アパートに向かって。駅から徒歩十二分。走ればどれぐらいだろう。スマートフォンの電源を切って、リュックサックのずっと奥底の方へ隠した。連絡手段さえ絶ってしまえば私は会社から断絶の一途をたどることができるのだ!という情熱もむなしいほどに、私のこの行為は計画性に満ちていた。残業に残業を、休日に出勤を重ねった結果、三十六万円の貯金と一週間の代休(有休を合わせれば一か月は休む権利がある)を得ていることを二日前には計算済みだった。労働者の権利だと堂々と主張する時間も雰囲気も用意してくれない会社と、精神科に通いつめて他人に自分の意志を示す気力など当然湧かないほど疲弊していた自分対して、定時を越えたのちに上司の糸井さんに要求された書類作成を放棄し、「すいません、辞めさせてください。代休と有休を消化した一か月後に」と、逃亡することで抵抗するのが精一杯の状態だった。「お、おい」という糸井さんの言葉を背に、私は動いた。会社のエントランスを飛び出し、社屋管理人の不思議そうな眼差しも知らず、電車に乗って、走って、また電車に乗って、降り、定期券をゴミ箱に投げ捨て、再び走って、いつもなら可愛がる野良猫を飛び越え、私はすがすがしく大きな束縛から放たれたはず、まだ日が沈む前のアパートの屋根には夕陽が乗っかっていて、その非日常の美しさに心打たれるはず、ブラック企業が存続するのは、ブラック企業で働いている人間がいるからだ、だから私はブラック企業を根絶するその最初の一手を切り出した勇者なのだという自尊心の高まりを得るはず……であった、のに、私は、普段運動しないせいでもあっただろうか、急激な疲労を全身に感じアパートの前で座り込んだ。何かとんでもないことしてしまったのではないかという後ろめたさが、沈みゆく夕日に続いて心に夜を連れてきた。途方に暮れるとはこのこと。怒り狂った糸井さんの顔が思い浮かばれ、私は顔を膝にうずめた。
「だいじょうぶですか?」
顔を上げるとピンクのウサギ。もはや、なぜピンクのウサギ? とも思わない。心を取り乱し切った私にとってピンクのウサギだろうが、カボチャの馬車だろうが、露出狂だろうが、なんだってこの状況には受け入れられてしまうようだった。
「座ってるだけです」
と、よくわからない返事をしたのち、人間の声だ。ウサギの被り物をした人間の男の声だ。と気が付く。
「もしよかったら」
ウサギ男に渡されたのは一枚のチラシだった。そこには、『TAKADAホテル 創業 10 周年記念イベント!』とゴシック体で大きく書かれており、その下には魑魅魍魎のイラストが沢山描かれていた。デザインの仕事をしていたので(しているといった方が正確だが)、それぞれ素人の落書きのようだった。プロがあえて素人のように表現するそれとは異なっていた。
「今週の土日、ホテルがテーマパークと提携して一泊二日、ホテルをお化け屋敷化するんです。お客さんには実際泊まってもらって、テーマパークのように楽しんでもらうんです。新しいっしょ。どうっすか。お姉さん、なんか、好きそうだし」