裕子は言葉に詰まった。何かを口にしようとしたものの、思い直したように口を閉じた。六田は語りかけるように言った。
「またお越しください」
「ありがとうございました」
裕子は丁寧に頭を下げて、足早に去った。
朝の七時半、二宮は朝食のために一階に下りてきて、フロントで六田の姿を見つけると声をかけた。
「昨日はいろいろすまなかったね」
「いいえ」
「なんか、あれだな、話をするっていいもんだな」
「そうですね」
「あんた、夜の海で話をしたことあるかい?」
「いいえ」
「不思議なもんでさ、夜の波って、心のとんがったところを、少しずつ丸くしてくれるんだよ。おだやかな気分になってさ、なんでも話せちゃうんだ。なに話しても、大丈夫な気がするんだ」
「そうなんですか」
「話すってのはいいな。溜めるとよくないもんだな」
「ええ」
「そう、よくないんだ」
二宮は何かを思いついた顔をした。
「そうだ。あんた、客同士が部屋で話せるホテルにしたらどうだ? 面白そうじゃないか」
「はあ……話ができるホテルですか」
「そう。あの娘さんだって、きっと賛成すると思うな。聞いてみてくれよ」
「もう、チェックアウトなさいました」
「そうか。なんか言ってたか?」
「話ができて楽になったと仰ってました」
「そうだろ、そうだろ」
二宮は満足そうに頷いた。
「彼女、いろいろ悩んでたんだけどな、俺が背中を押してやったら、結婚するって……」
急に二宮の声が遠くなった。二宮は続けて何かを言っていたが、六田の耳には入らなかった。無意識に何度か頷いたが、聞き返そうとは思わなかった。
「じゃ、また明日来るからよ」
という二宮の言葉に、六田は反射的に言葉を返した。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
フロントで隣に立っていた日勤の従業員が、六田に声をかけた。
「顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっと疲れがたまって。仮眠室で寝かせてもらうよ」
六田は崩れるようにベッドに横になった。電気はつけずに、真っ暗闇の中でうずくまる。波の音はここにはない。六田は目を開いて、耳を澄ませた。静けさがそのまま不穏な音になって耳を塞いだ。
――ここは海じゃない。夜だ。
広大な宇宙の中に地球が浮かんでいて、そこに六田はたった一人でいる。漂っている。
「酒でも飲むか」
六田はふとそう考えたが、仮眠室に酒の匂いがこもるのを嫌って、やめた。代わりに事務所の救急箱から、以前処方された睡眠薬を取り出して飲み下し、また仮眠室に戻った。六田はベッドの横に置いてある受話器を手にし、どこにかけるでもなく、ただ耳にあてた。
「私、六田は、初めて会ったその日から、一色裕子さんのことが……」
泣いた。いつぶりか分からないが、六田は泣いた。