「波の音、ありませんか?」
それは客室からホテルフロントへの電話で、若い女性の声だった。海に接しない県の、小さなビジネスホテルである。電話を受けた支配人の六田が、確認のため、もう一度用件を聞き返すと、電話の向こうの声は硬い口調で確かに「波の音」と繰り返した。時刻は深夜一時を過ぎていた。
六田は夜食を終え、一階事務所の隣にある仮眠室にいた。仮眠室は二畳の広さで、ベッドと電話が置いてある。ベッドは六田の身長、百八十五センチメートルに合わせた大きさで、部屋はいっそう窮屈だった。窓はなく、電気を消せば室内は真っ暗になった。六田は持病の腰痛でベッドに横になっていたが、電気をつけたまま、眠ってはいなかった。ずいぶん前から昼夜が逆転し、夜に眠気はこない。
六田は十年前に先代が亡くなってホテルを受け継ぎ、以来、週五日の夜勤を続けている。独り身の身軽さはあっても、望んで夜勤をしているわけではなかった。六田のホテルは県下三番目に人口が多い都市の繁華街のはずれにある、五階建ての小型ホテルで、七十の客室を有する。駅から徒歩で十分強、便はよくなかったが、巨大な千床を超える病院が近接し、患者や見舞い客、業者がよくこのホテルを利用した。ホテルの経営は、発展が見込めるほどの余裕はなく、人件費は最小限に抑えられていた。清掃やレストランを徹底的に効率化し、夜勤の大半を六田自身が担うことで維持できる状態だ。この十年、六田は新しいことを何一つやれていなかった。
「いつまでも、こんな生活を続けるわけにはいかない」
六田は焦りを感じていた。今年、四十五歳になり、若いときにあふれていた活力がいつの間にか消え、体は何をやっても疲れていた。昼夜逆転の生活は、輪をかけて六田の気分を落ち込ませた。夕方近くに目を覚まし、赤い太陽が地平線に沈むのを見つめた後、夜空の下で瞳は冴えている。夜に活動する期間が長くなるほど、暗闇が脳に染み入る気がした。
夜勤は夜九時から朝七時までの十時間、一人で事務処理とフロントへの電話対応を行う。一晩に十回は電話が鳴り、一度も電話が鳴らない夜はなかった。
「エアコンが効きすぎる」
「小さな虫が部屋の中を通った」
「お湯が熱すぎる」
この手の訴えは、皮むき器のように、少しずつ着実に、六田のやる気を削り取った。
「それで?」
「それで何?」
そう叫びたい気持ちを抱いたのは最初の数年だけで、今では生活のためと割り切って、うやうやしく、
「あいにく……」
と切り出す。古さがにじみ出るホテルだったが、清掃はベッドの下まできちんと行い、設備点検も欠かさず、内装も随時補修していた。
「……何卒ご了承ください」
六田は何度その言葉を口にしたのか分からない。今では二本足で歩くぐらい自然によどみなく言葉が出た。
時には、同じ内容で繰り返し不満を言う客もいたが、六田の答えも同じだった。どこにもたどり着かないやり取りの後、六田が静寂と暗闇に向かって吐くため息は、体の奥にある熱を奪っていった。
六田はその深夜の電話を仮眠室で受けた。
「はい、フロントでございます」
相手の女性はささやくように言った。
「眠れないのですが……」