その声の主にはすぐに思い当たった。三十代前半で、整った顔立ちをしており、六田の好みだったので強く記憶に残っていた。カウンターで女性が宿泊カードに記入する手元を見つめ、髪に目をやり、全身を一瞥した。女性の髪は乾いて少しはねて、疲れて見えた。本来は身だしなみに気を配る、華やかな女性なのではないかと、身につけている上着やバッグの質やデザインから想像した。
一色裕子、三十二歳。
裕子は丁寧な字を書いた。それがいっそう好印象で、六田は年甲斐もなく浮ついた。
「なにかお困りのことがあれば、いつでもおっしゃってください」
六田が宿泊客にそう言うのは初めてだった。
「ええ」
裕子が返した笑顔に力はなかったが、それでも六田を魅了するには十分だった。
眠れないという訴えは、たびたび夜のフロントに寄せられる。
「枕が合わない」
「シーツがゴワゴワする」
「久々の旅行で、気持ちが高ぶった」
「元々、寝つきは悪い」
理由は様々でも、ホテルが提供できるサービスは限られている。六田のホテルでは、酒とハーブティーを用意していた。ハーブティーは気分が落ち着くと常連客に人気で、これを飲まないと眠れないという客もいた。
しかし、裕子が言ってきたのはハーブティーではなく、波の音だった。
「波の音ですか……」
考えてみたが、ホテル内に思い当たるものはない。六田は奥歯を噛んで、天井を見上げた。
「あいにく……」
と言葉が出る前に、裕子はさらに話を続けた。
「子供の頃、海の近くに住んでいたんです」
「はい」
「あ、こんな話、迷惑ですよね」
「いいえ、構いませんよ」
「私、両親を幼いころに亡くして、親戚に預けられていたんです。時々おそろしい夢を見て、眠れなくなって」
「ええ」
「親戚は不憫に思ったのか、たまたまなのか、海のすぐ近くに引っ越すことになって。それからは、夜に目が覚めても、波の音を聞いていると、いつの間にか眠ることができるんです」
裕子の声が、涙声に変わった。六田の胸元に、受話器の向こうから熱い塊が飛び込んでくる気がした。
「探してみます」
あてはなかったが、六田はそう答えた。つい二ヶ月前、有線放送の営業が来て「音楽以外にも様々な御要望に」と言って帰ったことが苦々しく蘇った。
六田は仮眠室を出て、隣の事務所に行き、テレビやラジオをつけてみたが徒労だった。備品の棚を探すと、宴会の余興用のカセットテープが何本か出てきた。以前、余興の演劇の裏方で、波の音を小豆で再現したことを思い出した。
六田は厨房に向かった。レストランで出す汁粉用に、棚に小豆があった。その小豆を広げた傘の内側にいれて、ゆっくり回す。小豆がぶつかり擦れる音が、荒っぽい波のように響いた。エンドレステープに録音して再生すると、さらに波らしく聞こえた。六田は弾む声を抑え、裕子に電話を入れた。