その日は騒々しい夜になった。夜十時過ぎに三階の宿泊客から苦情が寄せられた。六田は宿泊者名簿を見ながら話を聞いた。フロントに電話をしてきたのは、二宮俊太郎、六十二歳。
「隣の部屋がうるさくてかなわん」
問題の隣室は、大学生グループの部屋だった。六田が三階に上がると、廊下に笑い声や、興奮した声が漏れ響いていた。騒音は下手に注意をすると、騒ぎが大きくなる。六田は「よし」と自分を奮い立たせ、騒がしいドアをノックした。
その大学生らは、幸い聞き分けがよかった。長身の六田に気押され、少しふてくされながらも謝罪した。六田は部屋を出た足で、二宮に報告した。二宮は少しバツが悪そうに、
「私も若いころは夜通し騒いだもんだから、偉そうなことは言えないんだけど、今日はゆっくり休みたくてね」
と言った。
一階に戻ると、フロントに裕子が立っていた。
「波の音が聞きたくて」
六田は頷いて、有線放送のチャンネルを波の音に合わせた。心臓の鼓動が耳の近くに聞こえ、フロアから波の音がした。波の音は照明を落としたレストランに吸い込まれ、その奥に本物の海があるように響いた。フロント前のこぢんまりとしたロビーに置いてあるソファーは、照明の下で波の音に合わずに浮いて見えた。裕子はソファーに静かに身を沈め、目を閉じた。
「暗くした方がよろしいでしょうか」
「そうですね。その方が落ち着くかしら」
ロビーの照明を落としても、フロントの照明で十分暗くはならなかった。六田はロビーにある折りたたみの衝立を広げ、ソファーとフロントを隔てた。フロントからは裕子の姿が見えなくなった。
「いかがです?」
衝立の陰を覗くようにして六田が声をかけた。
「こうして目をつぶると、本当の海みたいです」
裕子はキスをせがむ時のように、あごを少し突き出した。六田の手がじんわり汗で湿った。
「ここで朝までお休みになられても結構です。そのソファーだと、足は伸ばせないと思いますが」
「お気遣い、ありがとうございます」
「なにか他にございますか?」
六田は震える声で尋ねた。
「いえ、十分です。ありがとうございます」
「ごゆっくり」
六田は事務所に引き上げたが、頭の中がざわついて、仕事どころではなかった。厨房に入って、立ったままハーブティーを一杯飲み干し、再びフロントのカウンターに立った。六田は目の前にある、世界を二つに分ける衝立を、じっと見つめる。六田の目が感じる裕子の肉体。裕子は何を求めているのだろうか。六田は耳をすませた。裕子の息づかいは聞こえてこない。息を殺し、おびえて震えているような気がした。六田が横に一歩移動したとき、視界の端に人影が見え、六田の息が止まった。二宮だった。
「ど、どうされました?」
「いや、なんというか……」
「まだ騒がしいですか?」