冗談めかしていうと、彼女は「まだまだ見習いですからね。いつか出て、世界に名を轟かせてやりますよ」と言う。躊躇いなくそう言うところが、彼女の強さだと思う。
彼女は続けて、ある女性の名前を挙げた。件のコンクールの審査員にもなっている、世界的にも有名なパティシエだ。
「あのお方が、近くにいるかもなんですよねぇ……」彼女は熱っぽく言う。僕は何気ない風に、
「その人、今日ここに泊まるかもよ」
と言った。彼女は本気にしていないようで、「だといいですね」と言う。
「その人の顔とか知ってるの?」
「勿論です」
「じゃ、もし来たら教えてね」
彼女は完全に冗談と思っている様子で、「わかりました」と軽く言うとホールに戻っていった。
それからしばらく経って、彼女が興奮気味にキッチンに入ってきた。
その様子を見て、僕は一つ、大きく息を吐く。ついに、と思う。
ホールに出る。女性が一人、入り口のところに立っており、こちらを見て頭を下げる。僕も会釈を返す。自分の心臓の音がやけにうるさい。背筋の伸びた、豊かな髪のこの女性は、もう還暦を過ぎているというが、まったく年齢を感じさせなかった。
「あなたが今のシェフ?」
「はい」
「懐かしいわ。昔ここで働いててね。お茶だけでも飲んでいこうかなって」
知っている。だからこそ、今日ここに足を運んでくれると思っていたのだ。
「ありがとうございます」なんとかそれだけ言って、女性を席に案内する。席に着くと、彼女はメニューも見ずに紅茶をオーダーした。
「かしこまりました」
自分の声が、不思議な響きを持って聞こえる。そう思ったときには、次の言葉が零れ落ちていた。
「あの、差し出がましいことだとは存じているのですが」
女性はきょとんとした様子でこちらを見る。
「貴女に召し上がっていただきたいものがあるのです。勿論、お代は頂きません」
彼女は「へぇ」と微笑んで、「コンクールは明日よ」と言った。
「ま、そんな真剣に言われちゃね。いいわよ」
「ありがとうございます」
僕は一度深く頭を下げて、踵を返し、キッチンに戻る。奥の冷蔵庫から朝作ったシブーストを取り出した。思い出して、紅茶も用意する。
テーブルに戻り、紅茶とケーキを並べる。給仕が久しぶりだったということ以上に、緊張で手が震えた。
彼女は、出された品を見て、一度目を見開いた。フォークでそれを口に運ぶ。視線を上げ、目を閉じて味を確かめる。
「これは……」
9
「おいしい」
男の子は一口食べた途端、パッと笑顔になり、大きな声でそう言った。「すごいすごい」と興奮気味に呟く。
「お姉ちゃん、これすごくおいしいよ」
その笑顔と、その言葉に、私は胸を撃たれる思いがした。「そう、よかった」と返事をしながら、胸の内が温かくなるような感覚を覚える。
彼はこんなにも嬉しそうで、
私はこんなにも嬉しい。
これが、
人に幸せを提供するということか。
これまでの悩みが一瞬で消え去っていき、一つの決心が残った。
パティシエになろう。