多くの人を、こんなふうに笑顔にしてあげるために。
「お姉ちゃん、ありがとう」
男の子がケーキを食べ終わって少し経ったところで、彼の両親が見つかった。
「こちらこそ、ありがとう」
私がそう言うと、彼は首を傾げた。
彼には伝わらないだろうが、本当に、お礼を言いたいのは私の方だった。
最初の、特別なお客様。
「僕も、お姉ちゃんみたいになれる?」
言われて、笑いそうになる。私なんて、まだまだ夢を決めたばかりの見習いだ。
でも、
「なれるよ。迷わなければきっと」
彼は、迷子になったことをからかわれたのだと受け取ったのか、恥ずかしそうに笑った。
彼が出ていくのを手を振って見送っていると、入れ違いで新庄さんが店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」という自分の声がいつもより明るいことを自覚する。新庄さんは学生くらいの少年を連れていた。
「そちらの方は?」尋ねると、新庄さんは嬉しそうに笑って言う。
「孫だよ。大学受験でこっちに来ててな。医学部だよ、医学部」
「じいちゃん、声でかいよ」受かったかもわからないのに、と小声で少年は言う。
「いつもので良いですね。お孫さんの方は……」私とさほど年の変わらない彼に聞く。
「あ、僕は紅茶で。コーヒー、飲めなくて」
「かしこまりました。お席、ご案内しますね」
彼も、ここが気に入ってくれたらいいな、と思う。
10
「これ、貴方が?」と女性は言う。
「はい」
僕の返事を聞いて、彼女は考え込むようにテーブルに目を向ける。そして、溜息を大きく一つ吐いて、
「酷い出来だった」
と言うと、堪え切れないように笑い出した。
「今思えばね。でも、あれが精いっぱいだった」
「いえ、とてもおいしかったです。一生忘れないほど」
僕が言うと、彼女はまた笑った。
「あなたが作ったこれとは、比べ物にならないわよ」
彼女はもう一度、皿の上のシブーストに目をやって、「そう……」とつぶやいた。
「本当に、迷わなかったのね」彼女の目が、少し潤んでいるように見える。
「はい。おかげで、ここまで来られました」
幼い頃、このホテルで両親とはぐれたことがあった。その時、泣いている僕に声をかけてくれ、ケーキを食べさせてくれた女性がいた。その時の感動と、その時の彼女の表情が、僕に料理人への道を決意させたのだ。
「私も、貴方のおかげで……」
言葉に詰まる彼女を見て、僕も泣きそうになる。
どこかの雑誌のインタビューで、彼女がその時の話をしていたのだ。それを読んでから、僕はいつかお礼をしなければ、とずっと思い続けてきた。
それが、ようやく叶った。
「貴女という特別なお客様を迎えられて、本当に光栄です」
彼女はシブーストを綺麗に平らげ、紅茶を口に付けた。そのころには、二人とも落ち着きを取り戻していた。
「確かあの後だったかな。あの時のシェフ、急に自分の店を出すって言い出してね」
「え」彼女が告げた店は、数か月先まで予約で埋まっているという人気のフレンチ・レストランだ。
「ま、私たちが知らなかっただけなんだけど。なんだかソワソワしてたから、言われてみれば、って感じで」
多分、僕が間の抜けた顔をしていたのだろう、彼女は笑って、
「貴方も、もっと広いところで活躍なさい。その能力はあるはずよ」
真正面から言われて、僕はハッとする。
あの時、幼い僕に声をかけてくれた彼女の笑顔が重なる。
その笑顔が、すべての始まりだった。
「はい」はっきりと答える。自分がここにいる理由を、再確認する。
あの時の僕自身の気持ちを、より多くの人に感じてもらいたい。
そして、その気持ちが、形を変えながら、人から人へ、繋がっていく。
そんなイメージが、僕の頭の中を満たしていた。