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ホテルというものは、特別な空気に満ちている。少し張りつめていて、けれど確かに浮ついているこの空気が、私は好きだ。
「それ、7番さんね」
「はい」私は返事をすると、料理を受け取って、テーブルへ向かう。四十代くらいの、夫婦と思われる男女が、お互い何かを口にしあってはくつくつと笑っている。
シティホテルに併設された、ラウンジを兼ねたカフェ。ここで私は見習いとして働いている。
「こちら、海老のジェノベーゼパスタと、ランチプレートです」
笑顔で言って、ゆっくりと皿を置く。プレートを前に置くと奥さんが嬉しそうに歓声を上げた。
「あらおいしそう。このキッシュは何かしら」
「緑の方がかぼちゃとブロッコリー、こちらが三種類のチーズとベーコンのキッシュです」
「へぇ、チーズは何を使ってるの」
「ええとですね……」
しまった、確認していたはずなのに、名前が出てこない。奥さんの悪気ない表情を見ていると、尚更焦って、言葉が出てこなくなる。
「いいのよ、ごめんなさいね、困らせちゃって」
「いえ」
聞いてきますね、と言おうとすると、旦那さんがテーブルに置かれた小さなパネルを指して奥さんに「お前、ここに書いてあるじゃないか」と言った。奥さんは「あら」と笑って、私にもう一度「ごめんなさいね」と言う。私は「いえ、すみません」と頭を下げ、その場を後にした。溜息を一つ。またやってしまった。こんな風では見習いすら失格だ。
「何かあった?」
戻った時にシェフが声をかけてくれた。
「いえ、キッシュのチーズの名前が飛んじゃってて」と正直に答えると、シェフは笑う。
「なんだ、深刻な顔してたから、何があったのかと思った。別にそんなの誰でもやるよ」
四十前という若さだが、シェフの物腰には言いようのない安心感がある。そろそろこのホテルの副料理長になるとか、独立するとか、様々な噂があるが、本人はいつも「ここが気に入っててね」と言う。
シェフは入口の方を一瞥すると、笑顔はそのままに私の方に向き直り、
「しょげてても仕方がない。ほら、新庄さんがお見えになったよ。いつもの、よろしく」
言われてそちらを見と、豊かな白髪の男性が、店に入ってくるところだった。
このカフェはホテルの宿泊客でなくても利用できる。新庄さんはこの店の常連だ。いつも同じものを頼むので、もはや「いつもの」という注文さえ省略されてしまった。新庄さんは通りに面したカウンターに腰掛ける。これも「いつもの」だ。
しょげてても仕方がない。シェフの言葉を脳内で繰り返す。
でも、
別に、ミスをしたから落ち込んでいるわけじゃない。
料理を出したときの、夫婦の表情を思い出す。
特別な場所で、特別に出会えた喜びの表情。
シェフの作る料理には、そういう力がある。