「は、はい」咄嗟に返事をすると、瀬上さんは微笑んだ。
「じゃ、考え込むより、何か作った方が気が紛れるでしょ」
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他のお客さんもいなかったので、新庄さんと話を続けた。「お時間あればもう一杯くらいいかがです。サービスしますよ」と言うと、最初は遠慮していたが、「是非」と念を押すと照れ臭そうに首肯してくれた。
「新庄さんは、随分前からうちに来てくださっているんですよね」
「最初は祖父に連れてきてもらったんですよ。大学受験の時でした。実家は遠いところでして、祖父の家がこの近くだったもんですから、泊めてもらってて。そしたら、受験終りに祖父が『行きつけのカフェに連れてってやる』なんて言いだして」
新庄さんは心底懐かしそうに、そして嬉しそうに話した。僕の方まで嬉しくなってくる。新庄さんは続ける。
「その後、大学時代は来てなかったんですけどね。祖父が亡くなった時に、その受験の時のことを思い出しまして。ちょっと行ってみるか、となって、現在に至ります」
そう言って新庄さんは微笑んだ。
「ここは新庄さんにとって思い出の場所なんですね」
「ええ。別に、懐かしむために来てるわけじゃないですが。居心地が良くて、何度か来るうちに祖父がここを気に入っていた理由が分かりました」言って、新庄さんはカップを口に付け、店の中を見回した。
「そう言ってもらえると、俄然やる気が出ますね」
僕は嬉しくなって言った。普段、お客さんの話をじっくり聞くことは少ない。誰かにとってこの場所が特別な場所になっていることは、かけがえのないことだと思う。
「憧れますよ、そういう仕事は。人を幸せにする」感慨を込めて言う新庄さんの、それは本心なのだろう。しかしそう言う新庄さんの職業が医者であることは、僕も知っていた。
「憧れるだなんて、そんな。人を救うという意味では、お医者さんの方が直接的だと思うますが」
「ええ、もちろん、自分で言うのもなんですが、素晴らしい仕事だとは思います。ただ、何かを治すのではなく、純粋に幸せや思い出を提供する仕事には、なんだか憧れを感じますね」
「医者になろうと思ったのは、どうしてなんですか?」
僕が聞くと、新庄さんはたっぷり一秒、考えた後、
「ただ、『直接誰かを救いたい』というような漠然とした想いがあって、周りの人たちがそれを応援してくれた。それで、自分の道は間違ってないんだと思えたわけです。間違ったと思ったことはないですが、時々、全く別の道に進んだ自分のことを考えることはあります」と言った。そして、「シェフはどうです?」と僕に水を向ける。
「僕も、違った可能性の自分について考えることはあります。でも、僕の場合、小さい時に、ちょっとした出来事があって、その時に自分の夢が明確に決まっちゃったんですよね。あんなに早く決めちゃってよかったのかな、と思うことはあります。でも、その夢が揺らいだことはなかったので、むしろそうやって夢を持てたことは、幸運だったと思っています」
新庄さんは僕の話を、適度に相槌を入れながら聞いてくれた。嬉しそうな表情で。
「その出来事というのは?」
新庄さんに聞かれて、僕は苦笑して首を振る。
「本当に、恥ずかしいくらい些細なことなので……いつかまた、お話ししますよ」
――夜。そんな新庄さんとの会話を思い出しながら、僕は家に帰った。
机上に紙が一枚置かれている。
『全日本洋菓子コンクール』
もう何度も確認した内容を、改めて見つめる。