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「今日、フルーツの余りが出たから、使っていいって、シェフが言ってたよ」
夜の時間の仕事まで一通り終わったところで、調理師の瀬上さんが私に声をかけてくれた。「ありがとうございます」と返事をし、「余り」を見る。
ホテルは出す料理が決まっているから、使わない食材の廃棄が多い。賄い料理として従業員で消費しても限界がある。足の速い果物ならば尚更だ。
そんな余りの食材を使って「練習」してもいい、とシェフが言ってくれていた。私はパティシエ志望だから、果物が余ると、よく声をかけてくれる。
「シェフはもういないんですか?」
と私は聞いた。シェフはパティシエとしても名前の通った人で、時間のある時によく教えてもらっていたのだが。
「うん。最近早いね、シェフ。何かあるのかな」そう言う瀬上さんに深刻な様子もない。むしろ、悪戯っぽい表情で続ける。
「ついに独立しちゃうとか」
「えぇ! それは」
「嫌?」
「もうちょっといろいろ教わってからがいいです」
「現金だなぁ」と瀬上さんはからから笑った。
「ま、実際どうか知らないけどね。可能性は大いにある。教われることは教わっとかないとね」
「はい」
「いい返事だ。若いねぇ」瀬上さんは、そう言ってまた笑う。
「で、シェフはいないけど、ちょっとやってくの?」
「はい。でも私だけ厨房に残るのってマズいんじゃ」
「私も明日の分の仕込みやってるから、気にしなくていいよ」
「そんな、私も手伝いますよ」
「気にしなくていいって。なんか最近、ちょっと元気ないでしょ」唐突に言われて、一瞬、理解が遅れる。「えっ」と、調子はずれの声が出る。
「シェフも言ってたよ。なんか悩みあるのかなって。恋?」
「そんなんじゃないです」瀬上さんは冗談めかした口調で話してくれるが、私は目を伏せて答えるしかない。
「ま、悩めるときに悩んでおくってのが、若者に課せられた使命よね」
「瀬上さんもまだ若いじゃないですか」聞いたところによるとまだ二十代半ばだとか。
「そう?」瀬上さんは笑う。
そして、その笑い声を飲み込むようにして、真面目な表情で言う。
「でも、悩みどころで悩んでおくってのは、本当に大事。悩むなら分かれ道のところ。進んでから別の道に引き返すのは、大変よ」
返事をできないでいると、「って、シェフが言ってた」と瀬上さんは表情を緩めた。本当にどこまでがシェフの言ったことなのかは、分からない。
パティシエになりたいと最初に思ったのは、いつだっただろう。
強い動機があったわけじゃない。きらきらとした、甘いケーキが好きで、そこから漠然とした憧れが生まれたのだと思う。
それは、でも、お城のお姫様に憧れることと、何か違うのだろう。
人を喜ばせたいと思う気持ちはある。友人にケーキを作って喜んでもらうのはうれしい。
でも、お客さんを喜ばせることは、それとは全く別のものに思えて仕方がない。なんだか現実味がなく、ものすごく遠いもののように思える。
同年代の他の人たちには、自分の夢を疑うことのない強い意志があるように見える。
「自信がないんですよね」私はぽつりと漏らす。端的に言えば、そういうことになる。それだけではないことは確かなのだが。
「自信、ねぇ……」瀬上さんは視線を一瞬、上に向け、また私を見た。
「ケーキ作るのは好き?」唐突に言う。