「その分、稽古もこれまでより厳しくなるんだけどね」そう言ってはにかむ山中さんは、まるで恋愛ドラマのワンシーンのように洗練されていて美しい。「でもこれでようやく、夢が目標に変わりつつあるってかんじかな」
山中さんは女優を目指している。そのために、大学に通いながらバイトもやりながら、新宿を拠点とする劇団に所属して日々演技の稽古に取り組んでいる。自己実現のために必死に努力するその姿勢に俺は強く憧れ、欲目なしに尊敬していた。
親に高い学費を払ってもらっているにもかかわらず、大学で学ぶことをほとんど必要としない仕事を目指すことへの抵抗と罪悪感がかつての彼女にはあったらしい。でも、思い切ってその思いを打ち明けたところ、拍子抜けするくらいあっさり承諾してもらえたのだと、一年ほど前に心底嬉しそうに本人が言っていた。それからは迷いも吹っ切れたようで、着々と前に進み続けているようだ。
「まずは大学をちゃんと卒業しないとだけどね」
「山中さんなら余裕ですよ」
「ありがと。頑張ろうね、お互い」
この人はいずれ、俺なんかでは決して手の届かない世界にいってしまうだろう。
星の瞬きのように震えるその瞳には、これからどんな景色が映っていくのだろうか。いつ、俺はそこから消えてしまうのだろう。時々そんなことを考えてしまう。
それは梅雨の真っただ中で、朝からよく晴れた日だった。
久しぶりの太陽が嬉しかったからなのか、あるいは予感があったからなのかは釈然としないが、俺は、いつもは目白駅から電車に乗っていく片道三キロほどのバイト先に徒歩で向かっていた。
違和感に気づいたのは、目白通りを横断して神田川を過ぎようとしたあたりからだった。通常よりも明らかに多い人の数、骨に響いてくるようなパトカーのサイレンの音、喉や鼻の奥にからみつく何かが焼けたような灰の匂い。バイトの時間までにはまだ余裕があったので、多少の遠回りになるが俺は人の流れについていくことにした。予想はついていたが、やがて大気中を薄く白いものがたゆたうようになり、遠くの路肩に消防車と救急車を認めたことで、火事があったのだと分かった。
発火元は早稲田通り沿いにある飲食店だったようで、俺が着いたときには消火はすでに終わったあとだった。現場に残っていたのは店内の半分ほどが焼け焦げた建物、声を掛け合い事後の作業を行う消防隊員や警察官、なおも立ち昇っている太い灰色の煙。
ただ、俺の目と耳と意識の大部分は、そのどれでもない光景に愕然と奪われた。
四車線の道路を挟んだ向かいの歩道。パリッとしたスーツを身にまとい紺色のネクタイをきっちり締めた男性も、ベージュのニットワンピースに艶のある白いチャンキーヒールのパンプスを履いたOL風の女性も、眼鏡をかけた知的そうな雰囲気の男性も、カラフルなポロシャツにエプロンをつけた女性たちも、皆、まるで神秘的な光景を目前にしているかのように陶然と、おのおののスマホや携帯電話を掲げ、火災現場に向けて狂ったようにシャッターや録画ボタンを押していた。制服を着た中学生や高校生、大学生のような姿もあった。恍惚と幸せそうな笑顔を浮かべている人もいた。
そこには、大人も子供も秩序も無秩序もすべて、関係なかった。
──ああ、そうか。