メールの返信を終えた男の子の父親は、素早く伝票をつかむと席を立った。男の子も渋々席を立った。まだ腑に落ちないという表情は変わらない。
僕はそっとお店のBGMを消した。男の子と父親は店に誰もいない異様さに気付き、少し不安な表情を浮かべている。間も無く店の奥からゆったりとしたと歌声が聞こえてきた。
きよしこの夜。
マダム達はゆっくりと親子に歩み寄り、微塵の躊躇も見せずに何かの発表会の如く高らかに美声を響かせた。にこやかに親子を見つめ、一気に師走の風を店内に吹かせた。
「えっ?」
父親の戸惑いを隠せない様子とは反対に、男の子からは「わぁ!」と声が漏れた。全く正反対の反応を見せる親子を前に、マダム達の堂々とした姿に僕は勇気をもらった。
僕の戸惑っていた心は落ち着き、歌声に合わせグラスをベルのように鳴らしてみせた。
店員の僕を見るなり、父親の方はさらに困惑している様子が伺える。それもそうだと僕は思った。
続いてマダム達は<もろびとこぞりて>を歌い始める。それが合図だ。奥から漫才コンビの二人がサンタ衣装に身を包んだ田中さんを愉快に連れてくる。舞台慣れしてるのか、こちらも一切の躊躇もみられない。二人とも茶系の服を着ていたお陰で、まるでトナカイの様に見える。
「サンタさん!」
男の子は思わず席から飛び出した。フォッフォッと笑う田中さんサンタは、みんなの予想以上に完璧だった。あの時、田中さんは一つ返事で僕達の作戦を引き受けると、衣装を持ってまたトイレに戻っていった。僕は男の子がトイレに立たない様に必死に願っていたが、運良く誰もトイレには向かわず田中さんをうまく隠すことができた。もしこれが父親ではなく母親と来店していた場合、店を出る前にトイレに行きなさいと言われ、男の子とサンタは鉢合わせになるところだっただろう。
男の子は夢中で学校の話、友達の話、宿題が溜まっている話、ピーマンが苦手という話を目の前のサンタクロースに打ち明ける。次から次へと言葉を発するたびに、男の子は明るくなっていった。もう鼻声ではなくなっている。
僕はなんだかここにいる全員と以前から知り合いだった様な錯覚になった。二人を囲む中ようやく笑みを浮かべる父親の表情が穏やかになり、ありがとうと口元が動いたのを僕は見逃さなかった。ふざけるなと怒られたらどうしようと、正直怖かった。クビになってしまうかもしれないという恐怖もあった。しかし、僕らはこの少年をほっておく事ができなかった。その気持ちが僕らを繋いだのかもしれない。親戚でも、友人でも、家族でもないが、その場に居るという共通点だけで十分だった。
みんなが笑い合う中、僕はふと幼い頃の正月の件を思い出した。真冬にプールに入りたいと駄々をこねた自分に、従姉妹のあっくんが風呂場に即席プールを用意してくれた。それはいわゆるただのお風呂なのだが、僕は構わず飛び込んだ。我が儘が通った喜びではなく、誰かが僕の味方であるという事実が嬉しかったのだ。僕はなんの変哲もない湯船に歓喜し、心が満たされたのを覚えている。それは幼い僕に、温もりと安心感を与えてくれた。
男の子が本物のサンタかどうかを気にしているかは定かではない。しかし、君に降り注いだ多くの優しさは届いたと、僕はそう思いたい。