クレーム覚悟で席に向かうと、そんな空気は一切感じられなかった。
ニコニコと和やかな雰囲気なのでまず怒られないだろうと安心した矢先、マダムは口元に手をやり、こちらも小声で言った。
「私達ね、きよしこの夜だったら歌えるわ。」
僕は血の気が引いた。今、何か大きなプロジェクトが動き出している。後ろを振り返ると、身を乗り出していた男達は親指を立てたグッドマークをマダムに送っていた。
聞けばマダム達は、この地域で活動する<奥さま合唱団>の一員らしい。今日はその練習帰りだそうだ。僕の心配をよそに、離れた席から無言のグッドマークのラリーが飛び交っている。
僕の手は恐る恐るリュックを受け取り、本当にうまくいくのかと不安ばかりが頭を過ぎる。
こんなに事が進んでいるのにもかかわらず、窓際の男の子とその父親は全く気づいていないようだ。父親は誰かと連絡しているのか、しきりに携帯をチェックしている。男の子は量の少なくなったメロンソーダをつつきながら、まだ鼻をすすっていた。二人には僕らの無謀なミッションの気配など微塵も感じていない。それは安心というべきか、複雑な気分だった。
いつの間にか男達はマダムの席まで這うようにして移動している。
「じゃさ、俺が合図するんで、そしたら歌い始めてください。」
「俺達もなんかやらね?」
「ワクワクしちゃうわ~!」
あっという間に意気投合した四人は、コソコソと奥の席で作戦会議をしている。なぜ彼らが急速に親密になったのか謎だった。まるっきり他人で、まるっきり関係のない案件に我々は首を突っ込もうとしている。僕は既に動き出している何かをもう止める勇気はなかった。
「だってねぇ、あの坊っちゃん可哀想じゃない?ほら、まだ泣いてるわ。」
マダムの一人が言った。
「ですよね?俺は夢があっていいと思います!あの子の願い叶えてやりましょうよ。」
大きなお腹をタプンと揺らして男が言った。
「ほ、本当にやるんですか?」
僕は淡々と進んでいくこの妙な作戦の波に飲み込まれている。
「ここまで来たらやるしかないっしょ!」
僕は一応この店の店員なのに、今や明らかにその権限を失っていた。これも押しに弱く隠しきれない童顔のせいだろう。今は店長も居ないし大丈夫か、などの言い訳で現状を少しでもプラスに考える様にした。
早くしないとあの親子がもう帰ってしまうかもしれない。ふざけるなと怒鳴られるかもしれないが、僕はあの男の子の味方でありたい。腹をくくり着替えようと思った時、
「でもね~、あなたじゃちょっと可愛すぎじゃない?」
マダムの一人が誰もが気になっていた核心をつく。
「…で、ですよね。」
僕の顔に集まる視線が、一気に力無いものに変わっていく。<若さ>という尊いものが、今はただ虚しく感じた。僕のくくられた腹は次第に緩み、絞り出したやる気はまた不安に変化しつつあった。
僕は幼い頃の自分を勝手に重ね合わせた男の子に、申し訳なくさえ思った。あと少しで、あの子を笑顔に出来たかもしれないのに。
誰もがこの作戦が余りにも無謀だったかを受け止めようとしたその時である。
トイレから何も知らない田中さんが、意気揚々戻ってきた。
見た目、雰囲気、完璧だ。
僕たちは同じ選択肢を考えていた。
「さ、そろそろ行くか。」