当たり前だけれど、当たり前じゃない。
見てきた景色も、ごみの分別も、使ってきた道具も、話す言葉もすべて違う。ほんの20分程度の道中の間、日本人移民としてブラジルに旅立った曾祖父の事を、僕はケン君に少しだけ話した。日露戦争の後だったことや、当時日本がどれだけ貧しかったかについてケン君からは特になんの反応もなかった。
僕は深く息を吐きながらフットブレーキを踏む。奥の歩道を歩いているカラフルな団体、恐らくあれだろう。
「ケン君、じゃあ――」
「1908年、ソウセキ・ナツメ……」
「え?」
「思い出しました!『三四郎』が書かれた時代。僕、読みました。いい本です」
僕の顔がぽかんとしているのもお構い無しに、ケン君は「任務、ちゃんとやってきます」とさっさと車を出ていこうとする。僕はマイペースな彼がドアを閉める前に、思わず運転席から叫んだ。
「ケ、ケン君!」
「はい。越智サン、どうしましたか?」
仕事をもらって嬉しそうなケン君は、早く団体客に向かって駆け出したくて堪らない顔で僕を見下ろす。
「ぼ、僕も好きなんだ、夏目漱石」
「三四郎、読みましたか?」
「読んだ。良い本だよな」
「いい本です」
「そうか。日本語でよかったら、今度別の本を貸すよ」
「はい!」
バン、と勢いよくドアが閉まる。元気よく走り去っていくケン君の背を見て、僕は頭を押さえた。麦わら帽子のざらざらとした感触がむずがゆく、変な表情で笑ってしまう。曾祖父さん、――黒い制服がカラフルな団体に合流したのを見届け、僕は空に向かって話し掛ける。
空っていうのは、たしかに青いよな。僕には今なんとなくそれが分かる。僕等は生き続ける限り、こうして誰かと出会う。こんな僕でなければ、突然現れたケン君達でなければ、曾祖父さんの手紙を知らなければ、感じない青さ。いろんな事がダメでよかった。孤独でよかった。その反動で僕の空は青い。書庫の本、また借りるよ。
僕はエンジンキーを回して、ハンドルを握る。今夜はにぎやかになりそうだった。
※
ケン君達はしばらく明屋敷店に勤め、それぞれの人生の道を歩み出した。若い彼等には夢があって、ジョゼー君とアイラム君は結婚しアメリカへ行き、ケン君は祖国ブラジルに帰国した。みんなで客室清掃をした思い出の朝から、3年の月日が経っていた。
「賑やかな日々でしたねえ」
「はは。今の方が、あの頃より10倍賑やかだよ」
河合さんが「来ましたよ、バス」とフロントカウンターから僕を見る。コーヒー豆のセットは終えたが、今では野菜ジュースの方が主役だった。
JBリサイクルセンターの足立さんの活動がケン君達によってSNSで世界に発信され、また新しい風が吹き始めた。いきいきと働く現地外国人スタッフらのコメントがそこに連なり、町全体に注目が集まったのだ。ネットワークというものは、魔法のようだ。誰かの思いが、遠い世界の誰かへと繋がる。「あったかいホテルがある。いいぞ」なんて口コミが、明屋敷店の世界をぐっと広げた。
今では林間学校としても利用される当館では、学生が外国人観光客と一緒に農園でボランティア活動をする。近所の工芸品店からは伝統工芸品のお土産までが寄付され、いつの間にか明屋敷店は町のひとつとなっていた。客室の価格はそのままにして、JBリサイクルセンターの寄付活動に売り上げの一部を提供し、また新たに外国人就労者のスタッフを受け入れる。小さな活動は輪になって、繋がり合う。