「まいったな、食材も、明日の清掃スタッフの人数も足りないよ」
これで一人ずつの支払いとなれば、ロビーの大混雑が予想される。今日は一般客のお客様が20名ほどいらっしゃるのだ。
「だいじょうぶ」
声を上げたのはケン君だった。僕は「え?」と振り返る。
「大丈夫って……明日の清掃スタッフは4人だけなんだよ。パスポートのコピーも全員分とらないといけないし。食材のアレルギーの確認とか、いろいろあってね」
「私とジョゼーとアイラムは、英語はなします。朝食なんか食べなくてもだいじょうぶ。駅でお金集めます。戻ってきたら、私たちに部屋のそうじ教えてください」
身振り手振りで僕に一生懸命説明してくれる。どれもケン君単独の意見で計画性もないのだが、何故だか僕と河合さんは笑ってしまっていた。可笑しくてじゃなく、風を感じたのだ。なにか、楽しくて、新しい風を。
「まさか、駅まで歩いて迎えに行くつもりなの?」
河合さんの問いに、ケン君は手当された頬を手で撫でる。
「もう元気。役に立つの、うれしい」
河合さんは僕を見た。その目は「空回りしてますよ」とは呆れていなくて、ホテルバーツ明屋敷店が次のステップへ進む時なのだ、と僕と同じ直感に頷いていた。多分、これはチャンスなのだ。試練や困難は目の前になく、出来事の直前にあるのはいつもチャンスのほうだったのかもしれない。僕は頷いた。
「ケン君、駅までは車で送るから。ホテルまで1時間弱歩くまでに、支払いの確認と、パスポートを袋に一纏めに入れて、アレルギーの確認。これ全部できるかい?」
「わかった。できます」
「河合さん」
「はい」
「客室アサインの振り替えをお願いします。禁煙室でも喫煙室でもなるべく団体客がかたまるように。翌朝の清掃の効率も考えて。希望休以外の人で、シフトに余裕がある人に電話も掛けてみてくれるかな。みんなに頼らないとこれは大変だ。僕はジョゼー君とアイラム君に先に客室清掃のやり方を教えてくる。あ、ケン君、そもそも朝食がいるかどうかも確認をお願い!」
ケン君が「はい!」と元気よく返事をして、社用車の助手席のドアを開ける。僕は、「ぷ」と笑う河合さんの声に顔を上げた。
「どうしたの?」
「マネージャー、服!病院もそれで行ったんですか?」
「あ」
畑仕事スタイルだったことを完全に失念していた。麦わら帽子が夏風に飛ばされそうになって、河合さんが声を上げて笑う。
「自社菜園のことも、ちゃんとスタッフで分担し合いましょう。一人で背負い過ぎず、私達はチームなんですから。とりあえずジャージで運転して、戻ってきたら更衣室で着替えてください。安全運転で!」
僕は慌てて運転席に乗り込み、ケン君に「本当は、社用車には制服以外で乗っちゃダメなんだよ」と赤面を隠しながら告げ、エンジンをかける。ケン君は「越智サン、だいじょうぶ」ときっちりと着こなした制服姿でほほ笑んだ。
「気持ち、伝わっています。今日はとてもいい日。心がうれしい。外もいい天気です」
マネージャーとして、責任者として、支配人不在の店舗で僕がしっかりしないと、といつも怖い顔をしていた僕が見過ごしていた景色。初夏も充分に過ぎた爽やかな青天が、フロントガラスの先に広がっていた。
「そうだな……空が青いな、ケン君」