正しい発音は分からない。エスタル・ベムかも知れないし、Mは発音しないのかも知れない。僕の不細工な発音に、ケン君は数分後に顔を上げた。
「ケン君、どうした。What happen? 顔、と、腕。どうしたの?何があったの?」
日本語と英語、ボディジェスチャーを使って話す僕を、ケン君の黒い瞳がまっすぐに見つめてくる。僕は目を逸らさずにいた。こうして見ると、彼は日本人とあまり変わりない鷲色の瞳に黒の光彩を持っていた。
「……落ちた、キャチャから」
「え?」
僕と同じく隣にしゃがんでいた河合さんが、耳を寄せて聞き返す。
「わからなかった。こわかった」
ケン君は座ったまま僕にハグをした。申し訳ない気持ち、起こった出来事の詳細を日本語で言えない辛さ、それらの感情がハグに代わって僕に伝えられる。普段の僕なら、血を拭いてからじゃないと、とか、さっぱりわけが分からないよ、と文句や注意を口にしていたはずだった。
「そうか、こわかったな」
僕はケン君の背中を撫でた。ケン君は僕より10歳以上若い。弟にしたって年が離れているほうだし、僕には兄弟がいないからわからないが、多分友達とも違う。彼の背中に自然と両腕を回して、撫でたりさすったりした。完全な理解じゃなく、互いの気持ちを推し量る努力と、純粋な人間愛で、地球の真裏で生きてきた僕達の意識は近づいていった。
「ケン君、もしかして“脚立”から落ちたんじゃないのか」
河合さんが「あ!」と声を上げて、「そういえば、エレベーターホールの電球が切れていたような」と僕と顔を見合わせる。
「キャチャ、キャチャツから」
「分かった。分かったぞ、ケン君」僕は頷く。「分別指導の時に電球の予備がどこにあるのかも伝えていたものな。日本人でも、一度も脚立を使ったことが無い人は怪我をする。悪かった、リサイクルよりも大事なことを伝えていなかった。……それで僕を探していたんだな」
僕は「マネージャーのシフトは私がカバーしますから」という河合さんの頼もしい言葉に頷き、すぐにケン君を病院へと連れて行った。山を3km下った先にある町病院まで社用車を運転する間、怪我の具合よりもお金のことを心配しているケン君に、保険関係や安全知識、この国で暮らしていく上での彼らの権利について、たくさんの課題を見つけることとなった。
「越智サン、どうもありがとう。ありがとうございます」
ホテルの駐車場まで戻ってきた時、ケン君は僕の右手を両手で握った。
「ここにいる人たち、みんなやさしい。もっといろいろ学びたい。私はこの仕事がすきです」
僕の頭の中にあったブラジル人のイメージが、少しだけ変わっていることに気が付いた。曾祖父を奴隷のように利用したと言った祖母の言葉、それによって「デカセギ」という言葉でざわざわとする僕の心。その奥底にあった孤独が、少しずつ。
僕が見なければならないのは、いや、僕の目で見えることなんて、ほんのわずかな視界に映るこの世界だけ。それすらも、僕は見えなくなっていたんじゃないのか。
「マネージャー!」
河合さんの声だ。事務所の窓から社用車が停まったのが見えたのか、血相を変えて駆けてくる。外国人団体客が急遽宿泊先を探していて、英語で電話がかかってきたのだと言う。
「今日の6時頃到着予定みたいで。44名です!」
僕は運転席のドアを閉める。「日本人の添乗員は?」
「それが、お客様だけの個人ツアーみたいで。バスも無くて、駅から歩いて来るんだって……」
「駅から?もう歩いて来てるの?」
団体客の予約は、翌日の朝食の準備から客室清掃スタッフのシフトの調整に始まり、客室アサインや支払い方法の確認など、最低一週間前には連絡を貰っておかなければならない。