「自分の力で赤い糸を結ぶことが出来れば」
私はそう思いつき、今まで怖くて見ているだけだった赤い糸に、触れることが可能かどうか試してみることにした。
翌朝、通勤中の電車の中で、相変わらず満員の乗客の頭上に乱舞している赤い糸の群れに向かって、恐る恐る手を伸ばしてみた。隣の見知らぬサラリーマン男性につながっている糸だった。本人はそんなことに気が付くわけが無い。黙ってスマホをいじっている。年齢は三十歳前後だろうか。ごめんなさい!
糸に手が触れた。触れることが出来るのだ。これは大発見だ。
手に触れた感触と言えば……フワフワとした羽毛のような、その羽毛が無重力状態で空間にゆるやかに舞っているような、不思議な感触だった。持ち主の男性が一瞬、ピクッとしたような気がした。痛いのだろうか?
何かとても貴重なものに触ったような気がして、私は注意しながらそれを電車の空中にそっと戻した。
そうなのだ。あの相談者の息子さんの赤い糸も触れるに違いない。そして、その糸をどこかの誰かさんと結ぶことが出来ればいいのだ。手で触れるのだから、糸と糸を丸結びにしてもいい、それがだめなら瞬間接着剤で無理矢理にくっつけてもいい。痛いかもしれないけど、でも将来のためならそれは我慢するべきだ。
とにかく息子さんの糸の先端をこの手につかまなければ。母親に息子さんを連れてこさせた。本人は、かなり緊張していた。私が女性であるというだけで、防御姿勢に入ったのかもしれない。
息子さんの気持ちを少しでも和らげようと、二人でコーヒーを飲み、気楽な罪の無い会話を楽しむようにした。私は軽いユーモアを交えた会話術は得意だった。時間が経つにつれ、彼の口元から自然に笑みがこぼれるようになってきた。思えば、彼は母親とべったり過ごす時間が長過ぎたのかも。そのときだ。赤いピンポイントくらいしか見えなかった彼の小指から、サーッと半透明のクリスタルのような線が飛び出してきたのは。あっと思ってその線をつかもうとした瞬間、その線は空気の中に消えてしまった。彼は私が突然立ち上がり、空中をつかみまわすのを見て呆気に取られていた。そうか、彼が少しでもビビると糸は消えてしまうのだ。
自分に『男』としての自信を持っていれば、やがて赤い糸がどこかにつながるものだ、と彼を必死で励ました。つまり心の持ち方の問題なのだと。
「しっかりしなさい、男でしょう」
あまり普段言い慣れない言葉を、鬼になって投げかけた。
その後もかなり長い間、彼に寄り添い励まし続けた。そして最後には彼の指から丈夫な赤い糸が現れ、どこかの相手を目指してどんどん青空に伸びていった。やれやれ。どこか遠いところで、いい人の赤い糸と結ばれてほしい。世界のどこへでもよろしい、伸びていきなさい!
そんな涙ぐましい努力を続けていたある日、社長室に呼ばれた。
「岡田さ~ん。入社して日が浅いのに素晴らしい成績ね。この業界、本当は初めてではないんでしょう」
私は返答に困った。どうもこの社長さんの物言いには、冷たい印象が残るのが辛い。
「そんなことありません……。たまたまです」