その背中を見送る。あ、正木さんに名前名乗るのうっかり忘れてたって思いながら、都心の雑踏では、ぜったいみかけない朗らかな後ろ姿を見つめていた。
マップに書かれていたのは、この<鳥の庭園>と<ゆりいかマンション>ともうひとつ、<真夜中の>だけがみえていて土がついていたのではらったら、擦れてしまって前と後の文字がうまく見えなかった。
そこの文字だけが滲んでるみたいにみえた。
名前の欠けているところが妙に気になって、いつか訪れてみようかなって思った。
さっき電話で貴志が、次の通販会社のコピー一式は、後輩のシメジちゃんにするからって告げた。シメジちゃんは、昔弟の彼女だったことがある。ほんの一時期だけれど。死んだ弟の元カノがわたしの後任って聞いて、思いっきりもやもやした。シメジちゃんは、弟の葬儀の場面で参列者の誰にも気を配り、そつなく振る舞い、まるで彩夏はじぶんが気の利かないダメな女子の見本のように映っていたような気がしてならなかった。葬儀の日からずっとそんな思いを引きずっていた。泣けばいいってもんじゃないけれど、シメジちゃんは、弟の死が予期されていたことを知っていたかのような覚悟なのか、そのきわめて冷静な立ち居振る舞いすべてが彩夏は気に障っていた。悲しめない原因がそこにあるのかどうかはわからないけれど。
溜め息が思いのほか、部屋の空間に長く放たれた。そう、<真夜中の>なんとかに行くための理由。それがいま見つかったって彩夏は思った。
地図をよく見ると、いつも会社帰りに寄っていた大型電気店の裏にあった。
ひっそりとした佇まいの建物で。敷地の角にちいさく名前が刻まれていた。
<ホテル・真夜中の庭>。
ホテルだったんだって思って、はじめてのお店の取材の時の緊張感を思い出すように木製の重たい扉を開けた。
扉を開けた途端、足元がふわっと浮いたような感覚に陥った。そしてふわりと鼻腔をくすぐる草の匂い。フロアをよくみると、そこは芝生が一面に敷き詰められていて、目に飛び込んできたのは一面の緑だった。
あの日おとずれた<鳥の庭園>のつながりみたいな場所だった。
いらっしゃいませって声がどこかで、はもったような複数の声で聞こえてきた。振り返って微笑んでくれたのは、60代ぐらいのご婦人だった。何か作業の途中なのか、側のちいさなシンクで手を洗ってこちらに近づいてきてくれた。お客さんらしき人は芝生に腰掛けて幾人かで喋っている人や、テーブルを囲んで、すこし悲し気にしている人。とにかくここは、ホテルじゃなかったかもって少しだけ不安になった。近づいてきた女の人はとてもやわらかな皺を刻んだ目元をしていた。
「あら、もしかして正木さんの?」
「ええ鳥の庭園の」
「じゃ、あなた千賀子の?」
「千賀子さん?」
「あ、ごめんなさいね。ゆりいかマンションの大家の川上さんは、わたしの同級生なのよ。あ、わたしは米山百合子です。それであなたのこと聞いてたの。正木さん経由でいつか訪ねてくるかもって」
「そうなんですね。あ、申し遅れました。柘植彩夏です」
話の展開にすこし惑っていたらにこっと笑って「柘植彩夏さん。素敵な名前ね。このホテルにぴったりじゃない? 好きなところに座ってね。椅子もあるし、じかでもいいし。ちなみに芝生はわたしのおすすめよ。裸足で歩いてごらんなさいって。悩みもふっとぶわよ。飲み物はご自由にドリンクバーはあのコーナー。ほらあのぼっとした男の子の側ね」
その時、誰がぼっとしてるって? って大きな声がかかった。「あの子ね、わたしの孫なの。いっちょ前に園芸科出たとかで、ここを手伝ってもらってるの」