さっきから彩夏の頭の中を言葉が巡ってる。悩みの入り口付近にもう足を踏み入れてるぞって思う。いつだって、言葉があたまのなかを観覧車のようにくるくるとするのは、悪い予兆なのだ。
じぶんが請け負ったコピーライティングの仕事に値段をつけられなかったのが、発端だった。その直前、小さい頃からふたりきりで生きてた弟が死んで、ぽっかりとした砂時計の砂だけをみつめているようなそんな日々を送っていた。それは言い訳だし、決して仲が良かったわけじゃなかったから言い訳にしていること自体偽善なのだけれど。弟はいわゆる誰もが知っている企業の部長職に早々と付いていて、同じ厄介な環境で育ったはずなのにちゃんと自分の家族を持って、人生の至福への階段をするすると昇っているように映っていたから、自分勝手に彩夏は引け目を感じていた。それに、亡くなってみても彼の人望は厚いことを知らされて、死んでしまった弟の方が、幸せな人生だったような気がしていたのだ。悲しみよりもまだ弟への羨望の方がつよいって、酷い人間だと思う。
彩夏はいまの仕事に没頭したら弟のあれこれも忘れられるだろうと、カタログ誌の商品に対峙してページの空白を埋めることだけに集中してそこに勤しんでいるつもりだった。達成感はそれなりにノルマをこなしたことで得られていた。
いつも、決まったギャラのほうが助かるし、ギャラはそっちで決めてって思いたい気分もどこかである。フリーランスの誰かに相談したら張り倒されそうな甘えたことだってことは、知っている、けど、とにかく日常のあれこれに疲れていた。声を失くした人みたいにギャラの交渉の時には、言葉がうまくみつからない。生活がかかっているのにも関わらずだ。そしていつにもまして決められないでいたら挙句の果てに、恋人だった上司貴志に罵倒された。まぎれもなく、あれは罵倒という種類のものだったことを、時間が経ったいま確信している。もう、イッツダンって感じ。
つまり、やり遂げた仕事への価値を決められないのは、仕事に対して熱心に取り組んでいない証だと、とられても仕方ないよ、っていうかとても無責任な態度なのだみたいなことを、止まない雨のように言われ続けた。
キッチンのテーブルの上に葬儀会社から送られてきた見積書と領収書を眺めて、弟の人生と価格が一瞬イコールで並んでいる気がして気が滅入っていた。
世の中ほとんどの人が通りすぎていく場面であるにもかかわらずそのことが
遠い世界のように感じてしまう。そんな気分だったので彩夏は反射的に逃げたくなった。つまりパソコンの前に座りたくなくってそこからひたすら遠い場所へと身を置きたくなっていた。
ある朝。いつも最寄り駅のバス通りと反対方向の浜坂方面に向かって走っていると、ほんの何分もしないうちにたどり着いた<鳥の庭園>。
ここはいつか訪れてみてって、年上の女性の方に紹介された場所だった。
森林浴のようなものにすごく興味があったわけじゃないのに、そこに足を運んだ途端になにかとても解放された気分になった。
だいたい、じぶんのテリトリーは狭いのだと彩夏はひとりごちる。
棲みなれた場所からはあまり動きたくないし。たまに喧嘩はするけれど、できれば、議論なんてしたくない。だから、生きているものたちの自然の膨大なエネルギーに気圧されるんじゃないかと、乗り気じゃなかった。そんなことを彼女に話したら、だからそういう人こそ来てみなさいって紹介されたのがこの庭だった。