「ほら、お宮は、もう蹴らないでっていうポーズをしているじゃん。可哀想でしょ」
「違うんだよ。これは、もう蹴らないで、じゃなくて、私を許して、というポーズなんだよ」
「えー、蹴られた挙句に許してって、どんだけ立場が下なんだよ。もう、考え方が昭和じゃん」
「違うよ、この物語は、昭和じゃなくて明治時代なんだよ」
「明治なの? じゃあ、歴史上の人物じゃん。古すぎるよ」
友紀の手にかかれば、かつては日本中が熱狂した新聞小説も、いじめの象徴みたいになってしまったのだった。
三人は、銅像を見た後、熱海の海を見ながら砂浜を散歩して、旅館に帰った。
貫一お宮の像の話で盛り上がったおかげで、旅行一日目の夜は、楽しく過ぎていった。
〝楽しいご家族ね。声をかけようと思って近くにいたんだけど、あまりにも楽しそうだったから、黙って帰って来ちゃった。――下駄で蹴られた女、京子より〟
翌朝、研二がスマホを開くと、こんなメールが届いていた。
研二はスマホのメールを読んだ後、天井を見上げて、ふうっと息を吐いた。
瀬戸京子。研二が大学時代に付き合っていた女だ。遠い記憶の底に沈んで、もはやよみがえることも無いはずだった思い出だった。だいたい、何が、下駄で蹴られた女より、だ。蹴ったのはそっちじゃないか、と思ったら、無性に腹が立って来た。
瀬戸京子は研二が大学二年の夏から三年の冬まで付き合っていた相手だった。京子は、まさにお宮だった。
研二と京子は、お互いに結婚の意思を持って付き合っていたはずだったが、研二は、ある日突然、京子から別れを告げられた。理由は他に好きな人が出来たということだった。
研二は京子を問い詰めたけれど、京子は、ごめんなさいと言って涙を流しながら、それでも気持ちを変えることは無かった。
研二は京子の相手の男を詮索したりはしなかったけれど、おせっかいな友達がいて、どうやら相手は医学部の学生らしいという情報をつかんで来た。しかも、その父親は新潟市で総合病院を経営しているということだった。
まあ、そんな金持ちに言い寄られれば、心が動くというものなのかもしれない。そう思ってあきらめた。
だから、研二は絶対に貫一派なのだ。お宮になんか、絶対に蹴り返されたくはないのだ。
京子と別れた後は、次の恋を探す気にもなれずに大学を卒業した。そして、何となく都会に出てみたいという気分になって、東京で就職をした。そうしたら、間もなく咲子と出会ったという訳だ。
旅行の二日目は伊東だ。
この日の予定は、伊東の海岸を散歩してからシャボテン公園へ行く計画だ。
電車を降りた三人は、海の方向に向かって歩き始めた。恐らく五、六分歩けば海が見えるはずだ。
歩きながら、研二は昨夜、スマホを使ってインターネットで調べておいた話を始めた。
「伊東から西側の山の方に行くと、柏峠というところが有るんだけど、そこには昔、天狗が住んでいたらしいぞ」
「天狗って、何?」
友紀が不思議そうな顔で聞いた。どうやら天狗を知らないようだ。
「人間の姿をしているけど、羽根が生えているんだぞ」
「え? じゃあ、天使ジャン。可愛い!」
「いや、そんなに可愛い感じじゃないんだ。怖い顔したオッサンだぞ。真っ赤な顔で、怒ったような目をしているし、それに、鼻が長いんだぞ」