「子供のころは母親に連れられて何度も行ったのよ。夏休みとか春休みとか。ママはお婆ちゃん、大好きっ子だったの」
「へえ、私と一緒だね」
確かに友紀は、咲子の母親が大好きだ。
「でも、パパは伊豆の出身じゃないでしょ。どうして伊豆の方言をしゃべっていたの?」
友紀が不思議に思うのも、もっともな話だ。研二は、新潟生まれの新潟育ちだ。伊豆に住んだことは無い。
「ちょうど俺は会社に入りたてで、俺に仕事を教えてくれていた先輩が伊豆の人だったんだ。伊豆地方の熱海というところだよ。だから感化されて、俺も熱海の言葉をしゃべっていたんだろうな」
「じゃあ、ママは、とんだ勘違いでパパと結婚しちゃったんだね」
「そうそう、いろんなことを勘違いして結婚しちゃったのよ」
そう言いながら咲子はニヤニヤしている。
「おいおい、今のセリフは聞き捨てならないな」
研二がわざと怒った顔をして見せたが、咲子は特に気にしていない。
「でも、お婆ちゃんは私が高校一年の時に亡くなったから、それからは伊東には行っていないの」
「そうか……」
ぼそっとつぶやいた友紀が、急にパッと目を見開いて、手をポンと鳴らした。名案を思い付いたような顔をしている。
「じゃあ、今年の夏の旅行は伊豆に決定だね」
そう言って、大きく見開いた眼の横でVサインをしてみせたから、研二と咲子は大笑いしてしまった。
夏休みになり、研二は約束通り咲子と友紀を連れて、伊豆へ家族旅行に出かけた。予定は二泊三日だ。
旅行の一日目は、伊豆旅行の定番、熱海だ。のんびりと家を出て、午後三時過ぎに熱海に着いた三人は、旅館に荷物を置くと、さっそく散歩に出かけた。もちろん、熱海の海岸だ。
「やっぱり最初は貫一お宮の銅像だな」
尾崎紅葉の小説、金色夜叉の舞台となった熱海の海岸には、物語の主人公である貫一とお宮の銅像が有る。
研二の誘いで、三人は貫一お宮の像の前に来た。
「ねえ、パパ、この人達、何しているの?」
確かに小学六年生の友紀には、理解しがたい様子かも知れない。
「これは、貫一がお宮を下駄で蹴って、お宮が崩れ落ちている場面だな」
「えー、それって虐待じゃん。イジメじゃん」
「いや、まあ、貫一とお宮は結婚の約束をしていたんだけど、お宮が裏切って金持ちの男と結婚してしまったんだよ。それで貫一が怒ったということなんだ。言ってみれば、浮気されて、その浮気相手に取られてしまったという感じだな」
「ねえ、それって、いじめられた方にも責任が有るっていう言い方なんじゃないの? そういうことを言ったらダメだって先生が言っていたよ」
「なるほど、じゃあ、友紀はどうしたらいいと思う?」
「もう、蹴り返せばいいんじゃないの?」
友紀はずいぶん勇ましい。
「じゃあ、貫一は、浮気された挙句に、蹴り返される訳だね。すごく可愛そうじゃないのか?」
研二がむきになって言うと、友紀が言い返してきた。