「なによ、偽善者ぶっちゃって。全部、私が一手に引き受けてやってきたんじゃないの」
胸の奥から迫りあがってくる恨み辛みをぐっと呑み込んで、奈緒美は湯呑茶碗一つ一つに、義母が好んでよく飲んでいた渋めの煎茶を注いでいく。
結局、義母はその後一度たりとも目を開けることはなく、無言の帰宅を果たした。
清らかな死に顔を眺めながら、奈緒美は義母が最後に絞り出すように口にした、「ありがとう」の一言を、飴玉を転がすようにしみじみと噛み締める。役に立たない薄情な実の子どもたちよりも誰よりも、血の繋がっていない自分のことを慕ってくれていたことに、深遠な喜びを感じずにはいられなかった。
(無事に最期まで看取ることができて、本当によかったわ)
疲弊した心が、じんわりと満たされていく。そこで、奈緒美ははたと我に返った。
「あっ、そうよ」
義母の言葉を思い出して、年代物の桐箪笥に駆け寄った。上から順番に引き出しを開けていく。一番下まで覗いたところで、手がぴたりと止まった。
真ん中に、風呂敷包みと淡いさくら色のマニキュアが置かれている。薄紫色の風呂敷を手に取って解いてみれば、分厚い札束が目に飛び込んできた。ざっと眺めただけでも、数百万はあるだろうか。
奈緒美の今後の人生設計について、義母は何かしら感づいていたのかもしれない。
きっと、そうだ。産み育てた愛息との離別を承知したうえで、謹直な嫁の幸せを心から願ってくれていたのだろう。
奈緒美はいったん風呂敷包みを箪笥に戻して、マニキュアの蓋を取った。
義母の硬く冷たくなった手をすっと引き寄せる。義母の若かりし頃に思いを馳せながら、白く変色した爪一本一本に丁寧に塗っていく。
そのうち、上品で清楚な女性像が、くっきり浮かびあがってきた。
「お義母さん、とてもきれいですよ」
奈緒美がにこやかに微笑めば、義母の頬が窓から差し込む月明かりにほんのり照らされて、柔らかく緩んだようにみえた。
まもなく、葬儀社がやって来た。死装束を着せられたあと、遺体はすっぽり棺に納められた。
あくる日、火葬炉に運ばれていくとき、義姉の泣きの演技はいよいよクライマックスを迎えた。つられるように涙に暮れる喪服姿の参列者たちに交じって、奈緒美は神妙な面持ちで心から冥福を祈った。
「やっと終わったわ。すべて済んだのよ」
帰宅後、義母のにおいがするがらんどうの和室を見回しながら、拵えておいた塩むすびのあまりを一つ、空腹の胃に詰め込んだ。軽くシャワーを浴びて、重い足を引きずるようにして階段をのぼりきる。
これからは誰にも妨げられることなく、朝まで眠ることができるのだ。
酔い潰れて泥のように眠る夫の寝室から一室空けた奥の部屋に、布団をパシッと広げた。
深夜に一度、窓ガラスを叩きつける風の音に跳ね起きたものの、
「平気よ。私には許されているんですもの」
と、確かめるように囁いて、再び瞼を閉じた。そのあとは、もう途中で目を覚ますことはなかった。
朝六時、奈緒美は時計のアラームに叩き起こされるように布団から抜け出すと、爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。キャメル色のボストンバッグの中に、手当たり次第どんどん詰め込んでいく。最後に、大金が入った風呂敷包みを大切そうにしまいこんだ。