「オッケー。準備完了ね」
丸く膨らんだ鞄のファスナーを閉めて、誰もいない食卓についた。背筋をしゃんと伸ばして、さくら色のマニキュアを両手の爪に薄く塗っていく。
ほっとひと息つくと、クリアファイルから抜き取った離婚届にすらすら名前を綴って、印鑑を押した。
それは、丸っきり何の感情も挟まない、流れるような一連の作業だった。もう思い残すことは、これっぽっちもなかった。
「お義母さん、行って参ります。いろいろお世話になりました」
義母の遺骨が入った骨壺の前で両手を合わせてから、ボストンバッグをぐんと持ちあげた。
よく見知った馴染みある道を駅まで颯爽と歩いていく。小さなプラットホームに着くと、ちょうど各駅電車が滑り込んできた。
「さようなら。ありがとう……」
もう降り立つこともないだろう第二の故郷に永遠の別れを告げて、車内に足を踏み入れた。
いくつもの連なる民家が、車窓を流れては消えてゆく。電車を三度乗り継いで、やがて一面に広がったのどかな田園風景を目に焼きつけながら、はたして夫はどんな顔をするだろうかと、ちっぽけな疑問が湧いた。
ところが、詳しく思い出そうとすればするほど、二十年近く連れ添った夫の姿形も輪郭もぼやけていくばかりだ。寝食を共にしながら、なるだけ顔を合わせまいと避けて暮らしていたことに今さらながら気がついて、奈緒美は力なく苦笑した。
月曜日のちょうど正午前。
清々しい気分で辿り着いた空港ターミナルは、スーツケースを引きずりながら忙しそうに行き交うビジネスマンで溢れていた。ボストンバッグを一つばかり抱えているのは、還暦を目前に控えて人生の再出発に踏み切った奈緒美くらいのものだろうか。
出発時刻を知らせる電光掲示板の前で立ち止まり、ざっと視線を走らせる。
目的地は、仲良しの幼なじみが暮らしているニュージーランド。夫との冷え切った関係について愚痴を零すたび、数年前に現地の人と再婚してセレブな生活を送る彼女から、ぜひ遊びにくるよう誘われていたのだ。
とはいえ、あまりに突然の訪問だ。さすがに躊躇しつつも、昨夜遅く思い切って電話をしたら、
「離婚、おめでとう。よく決意したわね」
と、祝福されたうえに、離れのゲストルームが空いているから自由に使うよう快く承諾してくれた。
しばらく滞在させてもらっている間に、今後の暮らしについてじっくり考えを練るつもりだ。
「えっと、香港経由のオークランド行き……。あったわ!」
奈緒美は一直線にチェックインカウンターへ駆けていった。航空券を握り締めて、急いで税関を潜り抜けていく。
そのころ、年季の入った古めかしい家では、二日酔い気味の夫がのっそりと起き出したところだった。
哀れな熟年男の間延びした声が、階段を伝って家全体にこだまする。
「奈緒美、奈緒美ー。どこだ? どこにいるんだあ?」
妻の名を繰り返し呼びながら、リビングに顔を出す。荒々しい足音は、薄暗い食卓の前でぱたりと止まった。
机の上に置かれた離婚届を一瞥してから、明かりのついていない陰鬱な部屋をぐるりと眺め回して――。
「おいおい、嘘だろう?」
信じられないというように天井を仰いでから、膝から崩れ落ちるように座り込んだ。その顔が、グニャリと歪んでいく。
「待てよ。俺を置いてくなよ。おおおううっ――」
孤独な男の慟哭を掻き消すように、逞しい中年女をのせた飛行機が、勇ましい重低音を轟かせる。翼を広げて軽やかに離陸すると、はるか上空へとまっすぐ飛び立っていった。