玄関を開けた途端、ひどくくたびれた黒の革靴が目についた。いつも仕事帰りに酒の臭いを漂わせて帰ってくる夫が、日暮れどきに家にいるなんて、まずありえない。
「お、お義母さんっ」
奈緒美は自分の声とはとうてい思えないような叫び声をあげて、リビングに急いだ。よれよれのパジャマを着た夫が、怪訝な顔をしてソファにどっぷり腰をかけている。
「おふくろの介護を放り出して、いったい、どこに行ってたんだよ」
「いや、ちょっと……。ごめんなさい」
「何べんも連絡したのに無視しやがって、いいかげんにしろよっ。こっちは、暇じゃないんだからな」
すでに飲み干したらしい缶ビールが、グシャリと握り潰された。床に叩きつけられて、カラコロ音を立てる。
(心配や気遣いの言葉もなしに、いきなり罵声を浴びせられたんじゃ、たまらないわよ)
怒りと悲しみが入り混じったような複雑な感情が、腹の底からふつふつと込み上げてくる。その間にも、ほろ酔い気分の夫は、なおもグチグチ文句を並べ立てた。
「おふくろに何かあったら、どうするんだよ。俺は仕事で忙しいんだから、あんまり迷惑かけないでくれよな。おふくろの一番のライフラインは、お前なんだぞ」
どうやら、乱暴に投げ捨てたのが、一本目のビールではなさそうだ。言い返してやりたいことは山ほどあったが、奈緒美はじっと見据え返しただけだった。
冷淡なモラハラ夫に胸の内をぶちまけたところで、恐らく何も響かないだろう。それに、しんと静まり返った沈黙の中で、苦しそうな息遣いが、隣の部屋から漏れ聞こえている。
「おふくろもさ、ちょっと腰が痛いってだけで、いちいち呼び出さないでもらいたいよ。会議を抜け出して慌てて帰ってきたのに、どうってことないんだもんな」
そう吐き捨てるように言ってから、夫はどかっと立ちあがった。和室を一瞥しただけで、母親の顔を見ることなく、薄っぺらいTシャツの下の弛んだ腹を揺らしながら、階段を這い上がっていく。
「ふうー」
奈緒美は深く長い溜息を吐いて、鞄を引き寄せた。先ほどとなり町で見た映画のパンフレットをクシャリと丸めて、スマホを取り出す。電源を入れれば、気が遠くなるほどの着信履歴が、ずらりと縦一列に並んでいた。
義母が昼寝から目覚めたと思しき午後三時過ぎから立て続けに呼び出しが続き、数十分ほどの間を空けて、今度は夫から三度もかかってきている。伝言メッセージを再生することなく一括消去すると、鬱屈した気分で和室の襖を横に引いた。
「お義母さん、まだ起きていらっしゃいますか」
「ああ、奈緒美さん……。おかえりなさい」
案の定、義母はリビングに背中を向けて寝転んだまま、しかと目を開けていた。おそらく、すべて耳にしていたに違いない。
枕元までゆっくり近づくと、「ごめんなさい」と、か細い声で呟いた。
思わず皺だらけの手を握り締めて、奈緒美は口早に話した。
「こちらこそ遅くなってしまって、ごめんなさいね。今、急いでご飯を用意しますから」
「ええ、ありがとう」