義母が安堵したように、こけた頬を緩める。その黒い瞳を見つめ返した瞬間、奈緒美ははっと息を呑んだ。
(ああ、ひとりきりでは起きあがることも歩くこともできないお義母さんが、心から頼れる相手は私だけなのだ)
そう静かに悟って、奈緒美は焼け焦げるような眼差しから逃れるように台所へ駆け込んだ。予め作っておいた煮物をクツクツ温め直して、手際よくお皿に盛りつけていく。
かなり時間をかけて義母に食べさせ、入浴を済ませたあと、時計をちらりと見やれば、深夜零時をとうに過ぎていた。分厚い布団の中で、義母が辛そうに寝返りを打っては、「奈緒美さん、奈緒美さん」と、弱々しく囁く。どうやら、昼間一人きりにされたのが、よほど怖かったようだ。
板張りの暗い天井を注視して、奈緒美は唇を噛んだ。真上の部屋で、夫はとうに鼾を掻きながら眠りこけていることだろう。
泣き寝入りするしかない自分を責め立てているうち、図らずも涙がほろほろ零れ落ちてきた。
嫁の微かな心の揺れを察したのだろうか。あるいは、摩る手に力が入ってしまったのかもしれない。寝たままの姿勢で頭をわずかに傾けた義母に対して、奈緒美は何でもないというように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。私はすぐそばにいますからね。どうぞ、ごゆっくりお休みくださいね」
朦朧とした頭で義母の背中を摩りながら、我が子に話しかけるように繰り返しやさしく声を掛ける。あるいは、そうすることで、疲弊した自分を慰めようとしていたのかもしれない。
体の不自由な義母を引き取ったのは、かれこれ五年ほど前のこと。
実家近くに住む義姉が、医者の助言を受けて義母との同居を考えてもらえないかと、おもむろに頼み込んできたのだ。
「今まで散々孫の世話をさせておきながら、いざ具合が悪くなったら見放すなんて、あんまりだよな。厳しく突っ撥ねてやるさ」
義姉が菓子折り一つ置いて立ち去ると、夫は早口で捲し立てた。奈緒美も当然だとばかりに、深く頷いた。
だが、口が達者なうえにすこぶる強情な義姉に勝てるはずもなかった。子どもがおらず働いてもいない妻の奈緒美に泣きつく形で、見事押し切られてしまった。
そう、完全に弱みにつけこまれたのだ。
初めこそ感謝の言葉をかけていた夫だが、主婦の奈緒美にすべて任せっきりにするのに、それほど時間はかからなかった。実の母親なのだから手を貸してくれてもよさそうなものなのに、義姉は男三人の育児を言い訳にして滅多に顔を出すことなく、夫の帰りは日に日に遅くなっていった。
それまで年に数回顔を合わせる程度だった、いわば赤の他人の老婆との終わりの見えない生活……。それは、まさに気が狂いそうなほど息苦しく、逃亡という負の言葉が幾度頭を過ったか知れない。
気がつけば、義母はようやく眠りについたらしい。穏やかな寝息が夜の暗闇に溶け込む中、今しがた投げつけられた痛烈な罵倒が、よりいっそう鋭く耳に鳴り響いてくる。
「おふくろのライフラインが私だというのなら、私が倒れたときは、誰が助けてくれるというのだろうか」
ぼんやり宙に視線を彷徨わせながら呟いた問いに対して、『離婚』という二文字が、鈍い脳裡にぽっと浮かんだ。
(そうよ。乗りかかった舟ゆえに、このまま義母を見捨てて立ち去ることは避けがたいけれど、最期まできちんと看取った暁には、後腐れなくきれいさっぱり終わりにしてしまおうじゃないの)