「で、ある日、学校でのイライラがたまった俺は、母親に汚い言葉で名前の文句を言って、家を飛び出した」
眉間のしわが深くなる。ゆっくりとまぶたが閉じられた。
「何も考えずに俺は家の目の前の道路に飛び出してて、気づいたらトラックのエンジン音がすぐそばで聞こえた」
ふっと息を吐いて、こちらに目をやって、弱々しい笑みを見せた。
「母親に突き飛ばされた俺は無事だった。だけど、轢かれた母は即死だった」
無表情で感情の読めない初対面の男。次々と心情を読み取られていって、怖いと思った。だけど本当は、悲しい時に強がって笑ってしまうか弱い人だった。
「俺、最後に母親に向かって何て言ったか覚えてないんだ。だけど、ひどい言葉だったんだろうな……母親は、俺のせいで死んでいったことを後悔してるよ。俺のこと、恨んでる」
そんな後悔をし続けて生きていくなんて、あまりにも残酷だ。
「恨んでる、なんていうことは、絶対ないです。自分の命と引き換えにしても、きっと袋小路さんのことを助けたいと思ったから。そうじゃないと、迫ってくるトラックの前に自分も飛び出すなんてこと、できないです。信じていたらどうでしょうか、お母さんのこと。もう二度と会えないからこそ」
はっと息を飲んだまま、動かない袋小路さん。この人はずいぶんと長い間、母親に「恨まれている」という想いにとらわれていたのだろう。その想いからきちんと抜け出すのには、もう少し時間が必要なのかもしれない。
「見方を変えてみる、ということなのかもしれないね」
ぽつりと静かな呟きが聞こえた。ん? と首を傾げると、おかしそうに笑っている袋小路さんがいた。
「俺もまだまだだな、年下の女の子に、それも今日会ったばかりの子にすっかり助けられてしまった」
そう言って、お酒のボトルを一本取り出した。
「小牧さんにはこれがぴったりだ」
すっと目の前に差し出されたのは、淡く黄色がかったお酒の入ったグラス。
「飲んでみて」
甘いだけではなく、程よく酸味が利いている。これはもしかして。
「おいしいです……これ、桃?」
「正解」
目じりを下げて、ふっと笑いながら続ける。
「気に入ってくれると思った」
その優しい表情に思わずどきっとしてしまい、慌てて視線を逸らす。
「お客さんの中にはもう少し甘い方がいいって言う人も多いけど、小牧さんは甘いのが苦手だから、逆にこれくらい酸っぱい方がいいと思って」
俺も甘ったるいより、酸味が強い方が好きなんだよね、と自身もグラスを傾ける袋小路さん。
「小牧さんにとって、モモは甘すぎておいしくないものかもしれない。でも、レモンと一緒にお酒にしてしまうことでおいしいものに変えることができる。人も同じだよな。一つの側面にとらわれないで、ちょっとかかわり方を変えてみる。そうすることで見えてくるものってあるはずだよ」
「……モモ農家の家庭だから、将来は農家になるんだとずっと思ってました。名前のせいで生き方を縛り付けられていると思い込んで、両親を悲しませたくないと、期待に応えたいと、ずっとそればかり考えてきました。家族の関係を壊したくないと思ったから。でも、私にも違う生き方があるのでしょうか」
「家族の期待に沿って生きていく、というのも立派なこと。でも、適度な距離を取ってみるというのも必要なことだな。誰とどんなかかわり方をして生きていくのか。それを選ぶのは小牧さん自身だよ」
そして、俺も人とのかかわり方を選ばないといけない。一度顔を俯かせてそう言った後、袋小路さんはその真剣な瞳をこちらに向けた。
「俺はもっと、小牧さんがどんな人なのか知りたい。今日少し話しただけじゃ、足りない。だから、またゆっくり時間を取って、二人で会いませんか?」
無表情でぶっきらぼう。にやりと笑った頬に刻まれたえくぼ。泣きたいのに、強がって笑う弱さ。もっと、いろんな表情を見たい。