「私も、袋小路さんのこと、もっと知りたいです」
「夏希でいい」
ゆっくりとうなずけば体中が喜びで熱を帯びていくのが抑えられない。
「夏希さん」
どちらからともなく掲げたグラスを軽く触れさせると、チン、と澄んだ音が響いた。
甘酸っぱい香りが店内を満たしている。こんなにもモモの香りを心地よいと思ったのは、きっと初めてのことだ。
この人に呼ばれたら、私は自分の名前を好きになることができるのだろうか、とそんな考えがふと頭に浮かんだ。
この子はそれほど、この集まりに興味があるわけではない、と最初からわかった。ファッション、化粧の仕方、髪形。理由をあげようとすればいくらでもできるが、俺が一番気になったのはそこではない。
話し方。あるいは話そうとする意欲、姿勢。それを見ればやる気がないのは一目瞭然だ。しかし、集まった女性たちは彼女のそういう態度を見ても、あまり気にしていないようだ。どうしてかな、と考えた時、参加者の女性のうち二人が「小牧」と彼女の名前を呼ぶときに、一瞬のためらいがあることに気付いた。それはきっと、この場の誰も気づかない、些細な歪み。まあ、この集まりに興味のない俺がとやかく言うことではない。適度に飲んで、食べて、帰ればいいや。
小牧さんの仕事と名前の由来が結びついた時、かつての自分を見ているようで、気分が悪くなった。クラスメイトに名前をからかわれ、怒りの感情をそのまま母親にぶつけてしまったあの日。俺はあの時の後悔をいまだに引きずっている。たった一人しかいなかった自分の家族を失ってしまった、あの日。
こんなところにいても、楽しくない。帰ろう、と腰を浮かせた時、小牧さんが立ち上がるのが見えた。
俺は断じて、小牧さんを心配して外までついていったわけではない。だけど、小牧さんが「私の気持ちを考えてくれています」と言って笑うから、否定する気持ちが失せただけ。自分の名前の話をしたのは、小牧さんには俺と同じ過ちを犯してほしくないから。ただ、それだけ。
自分から女性に連絡先を聞いたのはこれが初めてだった。小牧さんは合コンで出会ったばかりの俺に付いていくという選択肢を取った。だけど、連絡先を聞いて、今後もかかわり続けたいと思ったのは俺の選択。
人間関係なんて希薄な方がいいと思っていた。大切なものを失ってしまうことが怖かったから。だから小牧さんに一緒に合コンに参加していた女性たちとの関係性を切り捨てても良いとアドバイスした。そこまでしか言うつもりはなかったけど、小牧さんの話を聞いていると――家族との関係を壊したくないと思っている小牧さんの話を聞いていると、なんとなくうらやましく思っている自分がいた。
大切なものを持っている人間はもろくなる。ずっとそう思ってきて、強い精神を持つためにいろいろなものを切り捨ててきたのに。
ピコン、と軽い電子音がした。
『夏希さん、ワイン製造の会社に就職決まりました!』
一人の女性の生きる道を変えてしまったことに対する恐怖心が全くないと言えばうそになる。だけど体の奥底から込み上げる熱い塊を意識せずにはいられない。
「桃」
一人の女性の名前として、その音を声に出してみる。君に「夏希さん」と呼ばれた瞬間、俺は自分の名前が特別心地よく聞こえた。それは真っ暗だった俺の世界にすっと光が差し込んできた感覚。君も同じように思ってくれるだろうか。
スマホを耳に当てる。呼び出し音が鳴ったのは短時間だった。
「就職おめでとう、桃」