「この辺りで、郷土料理を食べさせてくれるお店はありますか?」
「は、はい。『イカ人参』が特別に美味しい居酒屋さんでしたら」
「お酒に合いそうですね」
深津夫人がそう言うと、その横で駆けて来た男の子がすっ転んで、二秒間を置いてから泣き出した。
原田がフロントから出ようとする前に、深津夫人が子供を抱き上げた。
「ほら、大丈夫。痛いの痛いの飛んでいけー」
深津夫人が子供の膝を撫でていた。その振る舞いは慣れているようにしか見えず、何より優しくて、男の子は泣き止んだ。
「すみません。うちの子が。ほら、ごめんなさいは」
男の子が舌ったらずに謝った。
「いいのよ。男の子は元気なのが何より。元気が宝よ」
深津夫人が男の子を母親に返すと、母親がもう一度謝って、親子はそのまま外出をした。
「深津様、ありがとうございます。本来であれば私共が……」
「男の子はあれくらいじゃないと」
「恐れ入ります」
「それで『イカ人参』はどちらに?」
話は郷土料理の店に戻ったので、原田は場所を案内し、深津夫妻はホテルを出て行った。
原田の休憩時間に深津夫妻はホテルに戻って来たのか『イカ人参』の感想を聞く事は叶わなかった。
夜間の館内巡回をしながら原田は思う。
今日は格別にウルサイ。
各階もれなく、泣き声、叫び声、奇声のいずれかが聞こえている。だが、もう間も無く、この時間も終わるだろう。
子供達は疲れ切って、眠りに入る。
そうするとこれまでの騒がしさが嘘のように、ホテルは静まり返る。まるで舞台の幕が下りたようなその瞬間が、原田は好きだ。
そして、朝が来れば大騒ぎの始まりだ。このホテルの朝は、地球上でも指折りの生命力に溢れていると思う。
3階でエレベータを降りた。
ここは大当たり。つまり、一段とうるさい。この階は例の深津夫妻が泊まっている。
深津夫妻の部屋の前に差し掛かると物音ひとつ聞こえて来ない。
特に問題も無さそうだと思った時、
「こんばんは」
「うわっ」
原田は思わず声を出してしまった。
「驚かせてしまいましたね」
原田が振り返ると缶ビールを二本持った深津氏がいた。
「申し訳ありません」
「こちらこそ」
「では、ごゆっくりとお過ごし下さい」
原田は頭を下げて去ろうとした。
「不思議だと思いましたか?」
原田は足を止め、夫の方を見た。
「『ウルサイホテル』におじいさんとおばあさんの夫婦連れなんて」