マティスは、手を止めて、一輝に謝った。
「そんな、いいですよ。でも、マティスさんは?かっこいいし、素敵な女性がいるんじゃないですか?」
一輝は、予想する答えがきっと返ってくるだろうと、聞き返すような質問を、何気なく投げかけた。マティスは、一瞬窓の外に視線をやると、軽く息を吐いた。
「ううん。私の愛している人は、私のことを大切に思ってくれていまス。でも、それは愛じゃない。こればかりは、どうしようもないことでス」
マティスの答えは、意外なものだった。口元は微笑んでいたが、澄んだ薄青い瞳の奥が、深い海の底に潜っていくように、どんどん濃くなっていって見えた。一輝がマティスに会ってから、こんなに淋しげな目を見たのは、初めてだった。一輝には、愛している人がいると言い切れるマティスが眩しく、羨ましかった。だが、それ以上に、暗い瞳の奥が、これまで自分が抱えてきた、緩く生ぬるい孤独と共鳴するように感じた。
店を出て、マティスの先生の個展に、二人で向かった。こじんまりとした画廊だが、大小様々な額縁に入れられた油絵はどれも強い存在感を持ち、一輝は圧倒された。おしゃべり好きのマティスが一枚一枚説明すると思っていたら、一輝の後について、同じように無言で、じっくりと作品に見入っていた。一通り見終えて二人で談笑していると、シルバーの短髪の、初老の外国人男性が画廊に入ってきた。男性は、マティスに気付き早足でやってくると、マティスと軽いハグをした。マティスは、一輝に、先生でス、と紹介した。先生は、一枚一枚回りながら、ポツポツと控えめに、だが熱心に自分の作品について語り始めた。一輝は、先生に、普段太陽のように明るいマティスと正反対の、夜に輝く月のような雰囲気を感じた。同時に、その話を一輝に訳して伝えるマティスが、先生に向ける視線に、一輝は胸がひりついた。先生の表情、声、全てに情熱的な眼差しを送り、熱心に訳すマティスの瞳には、官能的な揺れが見え隠れしていた。画廊を出て階段を上がる途中で、赤いヒールを響かせて登ってくる青い瞳の女性にマティスは挨拶し、一輝に、先生の奥さんでス、と耳打ちした。マティスの目の奥に、一瞬、暗い海の底が映った。
銀座の街に戻ると、立派に立ち並ぶ店々も、長く広い通りも、夕日に照らされて淡いオレンジに染まっていた。
「一輝サンに会えてよかっタ。初めての日本が、最高の思い出になりましタ」
マティスは、左手を、一輝に差し出した。一輝は、左手で、強く握り返した。
「僕たち、結構似てるかもしれませんね」
「そうかもしれなイ」
二人は微笑みあった。
「一輝サン、お蕎麦屋さん待ってまス。私も、絶対に、先生と同じように、銀座で個展開きまス。その時は、みにきてくれますカ?」
「もちろん。俺も、美味しい蕎麦、食べてもらいます」
二人は結局、連絡先を交換しなかった。いつかはわからないが、きっとまた再会できる。理屈ではない確信が、それぞれの心にあった。冷たい秋風に負けないような、西の空に燃え落ちていく太陽の熱が、二人の体をじんわり温めていた。夕日を背に、地下鉄の駅に向かっていくマティスの後姿が消えるまで、一輝は眺め続けた。
朝のサイクリングは気持ちいい。
マンションを出て、銀座まで30分ほど自転車を漕ぐ。山本さんを先生に、かつての祖父の店で蕎麦の修業を始めてから、あっという間に三年が経っていた。今は、一週間後に、一輝を店長にニューオープンする店の準備に毎朝自転車でやってくるのが、ささやかな楽しみになっている。こじんまりとした店だが、祖父より前の代から使っていた欅の一枚板のテーブルなど、山本さんが大事に受け継いでくれていたおかげで、店の雰囲気も、一輝が知っている祖父の店そのままだった。オープンするにあたり、祖父が店に保管していた段ボール箱を山本さんから託された一輝は、箱の中から一枚の絵を見つけた。夜の、明るく賑やかな銀座の街が描かれていた。山本さんは、祖父が昔外国に旅行したとき、露店で買ったお気に入りの絵だと教えてくれた。油絵の具で、大胆な筆致で、豪快に、でも繊細に、銀座の華やかさと味わい深さがしっかり表現されている。一輝はこの絵を、店の一番よく見えるところに飾ることにした。