待ちに待った開店の日、外はあいにくの雨だった。だが、前の会社の同僚や親戚、祖父の時代の常連まで、入れ替わり立ち替わり暖簾をくぐり、一輝の蕎麦を絶賛して帰っていった。祖父の店の常連だった初老の男性は、金の無い若い頃、よくタダで食べさせてもらった、物腰がどことなく先代に似てるよ、あんたもきっといい蕎麦屋になる、天ぷらもいい味だったと一輝の肩を軽く叩いて帰っていった。高校で勉強が忙しくなってから祖父の店に寄り付かなくなってしまった一輝は、幼い頃この店で見ていた光景を、必死に記憶のなかから手繰り寄せた。蕎麦打ちや厨房が見渡せる店内で、若い山本さんと、髪が少し薄くなってきた祖父が並んで、客との会話を楽しんでいる。足のつかないカウンターに座って、緊張気味にジュースを啜っていた一輝は、カウンター越しに見るいつも生き生きとした祖父が好きだった。自分はそっち側の人間ではないと思いながらも、本当は憧れていた。今、懐かしくも新しい景色を見ている。不安はなかった。緩く生ぬるい孤独とともに、この店に立ちながら、日々を送っていきたいと一輝は決意した。
初日のお披露目営業を終え、給仕の女性二人が帰った夕方の店内で、一輝はコップに注いだ麦茶を飲んで一息ついた。思った以上に緊張していた心身に、水が染みわたっていくのが心地よかった。しばらくして、静まり返った店内に、ガラガラという引き戸の音が響き渡った。札は「準備中」に変わっているはずである。一輝が不信に思いながら、はい、と戸に目をやると、見覚えのある金髪が目に飛び込んできた。
「お店の名前、“たから”、いいですネ。暖簾も渋くてカッコイイ」
赤いリュックを背負ったマティスが、前よりも少し短く切り込んだ金髪を雨に湿らせて立っていた。一輝は、驚かなかった。マティスは必ずやってくる、そう信じていたことが、今、現実となった。
「どうぞ、座ってください」
マティスをカウンターに座らせ、一輝は蕎麦を出した。マティスは何も言わなかった。ただ、勢いよく蕎麦をすする音、こぼれる満面の笑みから、一輝はマティスの気持ちを十分に汲み取った。一通り食べ終わると、マティスは、平たい四角い箱を取り出し、一輝に渡した。無言の受け渡しの後、一輝はゆっくりと静かに開いた。中から、額縁に入った一枚の油絵が出てきた。それは、朝日に照らされた街だった。あの日見た夕方の、オレンジの街とは違う、一輝が自転車から見る朝の銀座だった。黄金に輝く銀座の街が、力強く、優しく、独特のタッチで描かれていた。ビルが、道が、人が、平等に、気高く美しく、光に照らされている。確かに街は生きている。人が街を生かし、街が人を生かしている。宝の街だ。一輝は、祖父の言葉を噛みしめた。人も、物も、この街のすべてが宝なのだ。
「来月から、若手アーティスト合同の個展、あの画廊でやることになったんダ」
「おめでとう」
「一輝サンもオメデトウ」
「一輝でいいよ」
ウィ。そう言ってマティスは、店内を見渡した。品の良い白い壁や、窓辺に飾られた可愛らしい一輪挿しの花は、一輝の人柄を思い起こさせ、マティスは微笑んだ。そして、壁に掛けられた、夜の銀座の絵に目を留めた。
「これ、先生の絵ダ」
「え?」
「間違いなイ。先生の、若い頃の絵ダ」
思い出したように、一輝が、マティスの絵を両手に取り、夜の銀座の絵の横に並べて掛けた。二人は、壁に掛かった二枚の絵をじっと見つめた。時が、止まったようだった。いつの間にか雨の音が止んで、少し開いた窓から、白い日の光が差し込んできた。初夏の生暖かい風が、心地よく張りつめていた空気をゆっくりと溶かしていくようだった。
「まだ早いけど、どう?」
一輝は、日本酒の一升瓶を掲げて、マティスに尋ねた。いたずらっぽいマティスのウインクに、一輝は声を出して笑った。