「コレ」
マティスの手には、赤い表紙がボロボロになった、小ぶりのノートが握られていた。それは、昼間、一輝も手伝って探し回り、結局交番に届けられていたマティスの大切なものだった。ノートの一番後ろに挟まっていた、はがきほどの紙が抜き出され、俯いた一輝の前に差し置かれた。フランスの、片田舎と思われる美しい風景が、緑や黄色の鮮やかな絵の具の色彩で描かれている。
「この絵、先生と私が初めて出会ったとき、先生が描いてくれたんでス。この絵を見て、私も絵を描くようになりましタ」
マティスは、フランスの片田舎で、実家の農家で牛の世話をしながらぼんやりと、まだ小さいながら大人になった自分を、父と同じ牛飼いをしている自分を思い描いていたとき、絵を描く旅をしていた先生に出会ったと言った。
「美術界では有名なのに、田舎道に小さなカンバスを立てて、今にも壊れそうなボロボロの木のイスに座って、朝から晩まで楽しそうに絵を描き続ける先生を見て、すっかり夢中になりましタ」
マティスは、一輝の前に置いた絵を取って、ゆっくりと、丁寧にノートに仕舞った。
「同じ景色が見たい、一番素敵な理由だと思いまス。一輝サンの蕎麦、私も食べてみたいでス。こうみえて、私、和食大好きなんですヨ」
そう言ってマティスは、一輝にウインクした。一輝は、顔だけでなく、胸の奥までだんだんと熱くなってくるのを感じた。
明日、銀座の街、一緒に歩きませんカ?
三連休の最終日、一輝は、昨夜一緒に食事をしたホテルに泊まっていたマティスと一緒に、歩行者天国の銀座の街を、ブラブラと歩いた。マティスは、首から下げた一眼レフカメラで、銀座の空気まで写すかのようにせわしなくシャッターを切りながら、キラキラした目で街を見回した。歌舞伎座の一幕見席で勧進帳を観て、鳩居堂で和紙を買い、奮発して寿司を食べた。歩き疲れ、一輝の提案で、千疋屋のフルーツパフェを食べることに決めた。恐る恐る入った店内は、おしゃれをした女性たちの、楽し気な笑い声がそこかしこに響いている。
「私、甘いもの大好きなんでス」
マティスは、てっぺんに乗ったイチゴを手でつまんで、口に放り込んだ。
「実は僕も。でも、普段一人でこういうところ入れないからマティスさん一緒に入ってくれて有難いです」
「私はパリのカフェで、一人で、ケーキ食べちゃいますヨ」
「羨ましいなあ。でもこれ、本当に美味しい」
パフェの下の方から一気にすくい上げて、一輝は笑った。
「一輝さんは、パートナーはいるんですカ?」
思いがけない質問に、一輝はスプーンを持つ手を止めた。マティスは、軽い世間話として、質問したのだろう。しかし、この手の話をされると、年甲斐もなく一輝はいつも、鷲掴みにされた心臓が風船のようにパンっと、勢いよく破裂するような気持ちになる。
「いえ、もう35だし、会社の同僚とか、特に母からは見合いだの何だの言われるんですけど、昔から、人と付き合うってことがいまいちわからなくて。家族を持つってことも想像できなくて」
恋人という存在の前に、一輝には、腹を割って話せる友人もいなかった。高校から仲の良い男友達は数人いるが、いくら付き合いが長くなっても、本当のところを話せる相手はいなかった。自分が思っている以上に自我が強く、否定され傷つくのが怖いことを、誰よりも自分が一番わかっている。まるでハリネズミのようだと、一輝は自嘲気味に思った。しかし、そんな孤独を、自分で楽しんでいる節もある。でも、この先、心身ともに衰え弱り、耐えきれない孤独がやってきて、どうしようもなく誰かを求めたくなったとき、一体自分はどうするのだろうか。
「それは、ごめんなさイ。変なこと聞きましタ」