ウィと呟いたマティスが、カウンターの店員に、同じので、と注文する。店員は、かしこまりました、と微笑んだ。
「フフっ、同じのでって、言ってみたかったんでス。日本のドラマで観ましタ」
「あー、わかります。僕も、言ったことないけどちょっと憧れます」
「一輝サンは、“僕”っていう人なんですネ。私、日本に来て三日目ですけど、“俺”を四回、“僕”を二回聞きましタ」
「へぇ、なるほど。僕は、外では“僕”で、家族の前では“俺”かもしれない」
「そうなんですカ!面白イ」
カウンターに出された日本酒を受け取り、一輝とマティスは乾杯した。マティスは、日本で、本場の日本酒を飲むのが夢だったと語った。二人で、アラカルトをつまみながら、色々な話をした。普段口下手で、そんなに話す方ではない一輝だったが、美味しい食事と酒が緩衝材となったのか、マティスとの会話のキャッチボールは思った以上に弾み、初対面とは思えないほど楽しかった。
「画廊の前にいたけど、絵、お好きなんですか?」
マティスは、首を大きく縦に振った。
「私、フランスで絵を描いたりしてまス。それで、私の先生が、日本で、さっきの画廊で個展するので、ついてきましタ」
「へぇ、すごいですね。アーティストなんですね」
マティスは、はにかみながら少し首を傾げた。
「先生は、とても素敵な絵を描かれますけど、私は、好きでやってるだけでス。普段は、パリの小さいオフィスで働いていまス」
マティスは、ピアニストのようにキーボードを叩く真似をして、一輝におどけてみせた。
「僕も、オフィスワーカーです。何年になるかな?もうずっとIT関係の会社で」
一輝は、カラカラとまわしていたグラスをピタリと止めて、俯いた。思いがけず、祖父の、屈託のない笑顔が浮かんだ。誰かに話したい。無言のときが流れた。カウンターの向こう側の、料理や飲み物を準備する音が、はっきりと繊細に聞こえてくる。はっと顔を上げると、一輝の目に、田んぼ一面に実った豊かな稲穂のような、艶やかな金色の髪が映った。マティスは、青く澄んだ、真っすぐな瞳で、心配そうに一輝を見ていた。一輝は、その瞳に吸い寄せられるように口を動かし始めた。
「僕……。いや、俺……、蕎麦屋を……、蕎麦屋をやりたいと思ってるんです。祖父が昔やっていた蕎麦屋を、復活というか、もう一度、その、祖父が見ていた景色を見てみたいと思って、この銀座で」
一輝は、祖父が昔、銀座で蕎麦屋の三代目をやっていたこと、一輝の父は後を継がずサラリーマンの道を選んだこと、それに対して祖父は何も言わず父を応援したこと、祖父の蕎麦屋を引き継いだ弟子の山本さんが、年のため、あと数年で店を畳もうとしていること、そして今、山本さんの後を、会社を辞めて蕎麦の修業に打ち込み、一輝が引き継ごうと考えていることを、興奮気味にマティスに話した。まだ誰にも話したことがない、自分でも半信半疑で、自分の性格ではあり得ないほど冒険した思い切った夢について、語っていた。今日会ったばかりの、見ず知らずの、しかも異国の人相手に、こんな告白をするなんて、一輝は、急に恥ずかしさで居たたまれなくなった。それなのにマティスは、黙って頷きながら、一輝の話をじっくり聞いている。一輝は、さっきよりも深く俯くと、顔に熱が溜まり、酔いがいきなりまわってきたように感じた。