「ケイコさんまだまだ元気?」
「えぇ、今はとっても。でも人っていつ死ぬかなんてわからないじゃない。だから死んで後悔しないように、死ぬ前にやらないといけないことを、できなくて後悔しないように今やっているのよ」
俺もひーちゃんも、死なんて遠い未来だと思っている。だから死ぬ間際の、死に近づいている人の気持ちがわからない。けれどケイコさんの話す自身の「死」はなんだかとてもリアルで、少し悲しくなった。
「ケイコさんは死ぬ前に何したいの? いっぱい遊びたい?」
ひーちゃんが屈託の無い笑顔でそう聞いた。ひーちゃんは、死というものをどこまで、どの程度理解しているのだろう。
「遊ぶのもいいわね。けど私は今ね、思い出の旅をしているの」
「思い出の旅?」
「そう。好きな人との思い出を巡っているのよ。まだわからないかもしれないけど、おばあちゃんくらいになると、どんどん記憶がなくなっていって、大切なことを思い出そうとしても思い出せなくなっちゃうのよ。それがとっても怖くてね」
ひーちゃんは首を傾げているけれど、俺には何となくだけれどその気持ちが理解できた。
大切な記憶を思い出せないまま死ぬのって、きっとすごく無念なことだと思うから。
「じゃあここのホテルは、その……好きな人との思い出のホテル、とかですか?」
「そうね。ここにはたくさんの思い出があるわ。まぁ内装は色々変わってしまっているけれど、匂いとか、雰囲気はあの頃のまま」
ケイコさんはそう言って懐かしむように目を閉じた。
「あの人の料理もとっても美味しかったわ……彼、ここの料理人だったから。でも、彼の味は無かった。それも当たり前よね。もう何十年も前のことだもの。けどいつかまた、食べられたらなって……なんて」
ケイコさんは一瞬寂しそうな顔をしたけれど、すぐに笑顔に戻る。あまりの表情の切り替えの早さに、ケイコさんは今まで何度も、こうやって悲しい気持ちに蓋をして来たのでは無いだろうかと思った。
「ひーちゃんはパパのお料理全部大好き!」
そう言ってケイコさんの真似をするように、ひーちゃんも目を閉じる。俺はその2人の間で、何を思い出そうか、と悩んだ。俺には思い出と呼ぶほどの「味」の記憶は無く、なんだか少し悲しい気持ちになった。
「あ! そろそろパパのところ行かなきゃ」
「そう、じゃあ私もお部屋に戻ろうかしらね」
そう言って立ち上がろうとしたケイコさんの腕を、俺は思わず掴んでいた。
「あの、ケイコさんの思い出の料理って、なんですか?」
ケイコさんは驚きながらも、俺の目を真っ直ぐ見て口を開いた。
「印象的だったのはオムレツかしらね。とっても甘くて優しくて、ふわふわで柔らかくて、まるであの人そのものだったわ」
あぁ、本当に彼のことが大好きだったのだろう。ケイコさんの話ぶりからそれが伝わる。俺は「そうですか」とだけ返してケイコさんの腕を離した。
「それじゃあ、おやすみなさいね」
「おやすみー!」
去っていくケイコさんの背中に、ひーちゃんが手を振る。
「海斗」
「何?」
「ケイコさんにオムレツ、作ってあげよう!」
「……」
ケイコさんの後ろ姿は、徐々に小さくなっていき、やがて見えなくなった。その様は、徐々に死に向かって歩んでいくケイコさんを表しているようで、とてつもなく怖く思えた。俺たちは今日出会った客とスタッフ、ただそれだけだ。けれど、出会えなかった思い出の味の変わりに、せめて新しい思い出をケイコさんに作ってあげよう、なんて柄にもなく思ってしまったのは何故だろう。