目を閉じながら徐々に近づいてくる誰かの足音を聞いていた。まだアラームが鳴る前だというのに。この足音は、間違いなく母さんだ。
「海斗!」
ノックもせずに開けられた扉から、母さんがずかずかとなんの遠慮もなしに入ってくる。ここは成人した息子の部屋だぞ。デリカシーが無さすぎるのではないか。なんて思いながら、起き上がって母さんの呼びかけに反応して見せた。
「何?」
「これ、おばあちゃんの大事な書類みたいだから、仕事行くときに出してきてよ」
そう言って渡されたのは、1枚の白い封筒。これを渡すためにわざわざ大きな足音を立てて上がって来たのだろうか。
「パシリかよ」
「実家暮らしでラクしてんだから、それくらいのことしなさいよ」
その言葉に関しては、ぐうの音も出ない。家でも俺の立場はとんでもなく下なのだ。
就職活動もせずにダラダラとした大学生活を送ってきた俺に、大学を卒業してからは当然安定した生活なんてなかった。学生時代にしていたアルバイトの貯金はたかがしれている。見兼ねた母さんがなんとか親戚のコネを辿り、俺は都内にあるホテルのウエイターとして採用されたのだ。と言ってもまだまだ下っ端のため、今やっている仕事は、食器類の後片付けなどをするバスボーイという、名の先輩たちの補助係だ。
「長谷川くん、これキッチンへ」
先輩たちから次々と渡される食器を落とさないように慎重に運ぶ。スマートに、かつ美しく丁寧に、教えられたことを意識してやっているというのに、今日もまた彼女が邪魔をしにやって来る。
「だからさぁ、海斗の顔怖いんだってば」
僕の身長の半分もない彼女が、呆れたようにそう言った。
「あっち行けって、邪魔すんな」
俺は彼女を避けながらキッチンへと向かう。足元にちょこちょことついて来られたら邪魔で仕方がない。まぁいくら言ったってついて来るのは目に見えているのだけれど。
「もう! アドバイスしてあげてるのに!」
「お前さ、外で遊ぶ友達もいないわけ?」
「お前じゃない! ひーちゃんです!」
頬をハムスターみたいに膨らませた彼女・ひーちゃんは、拗ねながら俺のふくらはぎを小さな足で蹴った。毎回だ。俺が出勤するたび、ひーちゃんはこうして俺につきまとう。決まって俺だけに、だ。
ひーちゃんと初めて会ったのは出勤5日目の昼だった。覚えることの多さ、そしてホテルで働くことの厳しさに、今まで堕落した生活をしていた俺はついて行けずに食堂でうなだれていた。俺は何にもできないじゃないか、なんて。そんなときだった。俺の隣に突然ひーちゃんが座って来たのだ。
「まぁ飲みなよ」