まてまてまて。
あれにぶつかってこられたら、骨折で良いほうだ。譲は右手の棍棒を前に出し、じりじりと後退する。左手には、杉の皮。頭には脂汗。
「よ、よ~しよ~し」
にらみあう中、猪の前足が一歩でる。
「まて!まてまてまて、落ち着け」
ぶこ、と威嚇するように再び鼻が鳴った。あれか? 棍棒を前に出してるのがいけないのか? ああ、でもこれを引っ込めたら危なくないか? いや、引っ込めない方が危ないのか?
「落ち着け落ち着け、落ち着けって」
頼むから! 最早猪に言っているのか、自分に言い聞かせているのか分からない。
この、完全にロックオンされているなか、最善の策は、何か。焦る譲の視界に、ふと左手の杉の皮が入った。
「ほ、ほれほれ」
効果があるかどうか。迷ってなぞいられない。
「ジャーキーだぞぅ、うまいぞぅ」
アピールするように左手を振る。猪の注意が、そこに集中した気が、した。あくまでも気だ。
「うまいぞう、うまい……いいいい」
もう少し引き付けたかったが、一刻も早くこの場から逃げ出したい気持ちが勝ってしまう。
「いいいああああそれえええええ!!!!!!」
猪より少しそれた斜面に杉の皮を投げると、譲は脇目も降らず一目散に回れ右で駆け出した。
「ええああああ!」
怖い、山、怖い。下草に足をとられながらも猛ダッシュ。気がつけば真っ直ぐに宿への道を進んでいた。
「今日はどうだった、佐古田君」
「はあ、見ての通りです……」
夜。食堂にて、譲は一杯の水と再びあいまみえていた。そして傍らに、にやにやと笑う奥平翁。昨日と全く同じ光景だが、譲は最早このじい様を見返してやろうなどという反抗心は持ち合わせていなかった。
「山って怖いですね……」
「じゃろうじゃろう。今日も戦果ゼロか」
「はい、完全に舐めてました……」
「じゃろうじゃろう。腹が減っとるか」
「はい……」
「じゃろうじゃろう。だが、狩人の宴の掟、その一、自らの食料は自らで確保すること、じゃ」
「はあ……」
「つまり、お前さんの夕飯は今日も無しじゃ」
突きつけるように言われた台詞に、抗う力も沸いてこない。自らで獲物を確保することが出来なかったのだ。当たり前である。ああ、今日もいびきと腹の音の二重奏だなと項垂れた。
「……奥平さん、そんな、若造をもう苛めてやることないじゃないですか」
と、その時である。奥平翁の肩を叩く者がいた。
「そうですよ、奥平さん。折角泊まりに来てくれたんだし」
譲が顔をあげると、いつの間にか他の宿泊者が彼のテーブル周りに集まってきていた。その手には、それぞれ料理の乗った皿を持っている。
「えー、それじゃあコンセプトが台無しじゃろう」
「まあまあ。狩人の宴なんでしょう? なら、宴らしく皆で獲物をシェアしないと」
ね、君。唯一の女性参加者にそう言われ、譲は言葉がでない。そんな様子の譲に、彼らは遠慮するなとどんどん彼のテーブルに皿を運んでくる。
「まあ、茜ちゃんが言うなら、仕方ないのう」
奥平翁のその一言をきっかけに、各々が椅子を譲のテーブルに持ってきて、がやがやと宴会の様相を呈してきた。
「あ、あの……」
そんな中、譲はいきなり豪勢になった目の前の光景に気後れしてしまう。自分は、山の中で何も出来なかった。なのに今、円卓の上には溢れんばかりの肉料理が並んでいる。