夫にとって蕎麦はおそらくお気に入りのランチメニューか何かなんだと思う。夫はずるずると豪快な音を立てて蕎麦をすすった。私はカレーをスプーンですくった。コンビーフが入っている。これは子供たちから好評だった家族の思い出の味だ。子供が全員小学校に上がったくらいの時に皆からせがまれて週に一回は作った。献立を考える手間が省けて主婦としても大助かりだった。
「その細かく入っているのは肉か?」
夫が私に尋ねた。私や子供たちにとっては思い出の味だけど夫はこのカレーを知らない。コンビーフカレーが頻繁に食卓に上がり始めたころに夫は会社で昇進した。付き合いが増えたのか家に帰る時間も遅くなり、休日も家にいることが少なくなった。
「上手いなあ。大トロよりも中トロくらいが俺好みだ」
今度はマグロの握りを美味しそうに食べている。マグロの握りは接待か、それとも私の知らない女とのデートで食べた思い出の味か。夫の浮気を疑った事もなかったわけではない。ただ、それに感づいたころには、その疑惑を追及するだけの気力も愛情もなくなっていた。
私は目の前にある小さな一人用鍋の蓋を開けた。このサイズの鍋が食卓で大活躍するようになったのは、子供たちが大きくなり、家で顔を合わせて食事をすることが減った時期だ。子供が小さく騒がしかったころは、たまには一人で静かに食事をしたいと思ったものだったが、いざそうなると侘びしいものだった。
そんな淋しい思いをしていた時期に優雅に高級な鮨を食べていたかと思うと、夫に対して怒りの気持ちが湧いてきた。妻がこんなことを思っているというのに、夫は目を細めて幸せそうに咀嚼している。
やっぱり今日が最後の外食になるのかもしれない。
夫は来月に定年退職する。それまでは支えようと前から決めていた。この店では特別な食事が出来た。節目を飾るにはちょうどいい機会なのかもしれない。
この後もお互い別々の料理を食べ続けた。すると、夫が突然「ちょっと外出てくる」と部屋を後にした。仕事の電話かそれともトイレか。そう思っていたが、三十分たっても帰ってこない。探しに行くべきかと思った矢先、戸が開いた音がした。振り返ると、夫が両手で大事そうにホールケーキを抱えて立っている。
「どうしたの、それ。誕生日でもないのに」
「うん、いやな、実はこれ俺が作ったんだ」
「えっ? あなたが?」
料理などまったくしたことがない夫がケーキ作り。よく見るとどこからどう見ても素人が作ったと分かる不格好なものだった。夫は照れくさそうな表情を浮かべたままテーブルにケーキを置き、不器用な手つきで盛り分けた。
ケーキの上に大量のイチゴ。断面にも大量のイチゴ。
あーあ。呆れてしまう。この人は私の事などなにも知らない。いや忘れてしまったのだろう。確かにショートケーキを食べることはあった。でもイチゴだけはいつも夫か子供にあげていたはずだ。こうも中に入れられてしまうと除けようがない。私は小さいときから、イチゴは嫌いではない。確かにイチゴがあればケーキが華やかになる。でも、甘い生クリームとイチゴの組み合わせが苦手だった。イチゴの酸味がたちすぎるからだ。
「これまですれ違いだったかもしれないけど、これからはまた仲よくしよう」
イチゴの件で辟易している中、ありふれた言葉が夫の口から飛び出してきた。すべてはこれがやりたくてこのお店を選んだのだ。ケーキに手を付けるのがためらわれて、フォークを持つ手が止まってしまった。このケーキを食べるということは受け入れるということだ。フォークをお皿に置こうと思ったけど、金縛りにあったように手が動かない。