「たまには外で食事でもどうだ」
そう夫から言われた時は戸惑った。若い時、それもノイローゼ気味だった子育て期だったら嬉しい誘い文句だったと思う。でも、今の私にとっては心を躍らせる言葉ではなかった。
久しぶりの外食だ。昔は子供たちと一緒にファミレスで食事をしたこともあったけど、子供が皆巣立ってからはそういうことも一切なくなった。
「どうだ、良い店だろう」
店の個室に通されると夫はご機嫌な様子で私に聞いた。店は人里離れたビルの地下にある。入り口の壁がコンクリートの打ちっぱなしで、今時の人にとってはオシャレなのかもしれないが私には理解できなかった。ただ、看板に書かれた「足跡」と言う店名だけは斬新に思えたしどこかセンスの良さを感じた。個室の造りは白い壁と黒いテーブルだけで余計な装飾品など一切ない殺風景なものだった。外の音がまったくで聞こえないので、商談には打ってつけなのかもしれない。
若い女性店員に飲み物を注文した。夫はビールで私はウーロン茶だ。店員は作り笑顔を見せるでもなく、かといって不愛想な印象もない。
美味しそうにビールで喉を鳴らした夫はグラスをテーブルに置いて言った。
「コースで注文してあるからな」
「コースってここは何屋さんなの? 和食? 洋食?」
内装からはジャンルが特定できそうもなかった。
「ここは何でもあるんだ」
夫は得意げに続けた。
「ここの店名見ただろう?」
「ええ、『足跡』でしょ? 変わった名前ね」
「ああ、ここのコース料理はなあ、足跡を辿るように思い出の料理が出てくるんだ」
まったく意味が分からない。そんな私を察したのか夫は「まあ、出てきてからのお楽しみ」と言いながら笑った。それと同時に戸が開いた。どうやら一品目が運ばれるみたいだ。
店員は小さな器を夫と私の前に置いた。妙だ。夫と私で料理が違う。
私は目の前に置かれた料理を見て驚いた。
「驚いてるな?」
「ええ、まあ」
「じゃあ。食べよう」
「いただきます」と手を合わせ、私は料理に箸を付けた。
味もおんなじだ。
アサリの缶詰の甘辛煮。これは私が小さい頃好きだった母の料理だ。本来なら子供が好む料理ではない。仕事が忙しくてめったに家にいない父が帰ってきた時にだけ食卓に上がるおつまみだ。幼かった私は父の膝の上でこのアサリの甘辛煮を分けてもらっていた。父からは「お前は将来酒飲みになるな」と笑われたものだった。別に味を好んでいたわけじゃない。ただ父と一緒に食べる食事が好きだったのだ。もうだいぶ昔に亡くなった父を思い出し、目にじんわりと涙が溜まった。夫はそんな私に気付かない様子で自分の料理を食べている。父の予想は外れ、私は一切お酒が飲めない。夫からすれば、少しはお酒に付き合えれば楽しかったのだろう。きっとそのことに夫は不満だったはず。