「とても楽しかったです。なんかこの一泊だけで、心なしか身体もすっきりした気がします」
「それは良かったです。誠にありがとうございます」
私は少し声を落として、コンシェルジュに多田さんのことを話した。
「 あの、多田さんという方から、あの掲示板に描いてあったんですけど…」
「かしこまりました。少々お待ちください」
コンシェルジュはフロントの背後にあるスタッフ室に入ると、すぐに一枚の葉書を持ってやってきた。
「こちらが多田様からお預かりしたものです。どうぞ」
私は葉書を受け取る。そこには多田さんの達筆な文字で、こう書かれていた。
「この葉書を受け取ってくれてありがとう。私の住所を書いてあるので、お手紙、お待ちしてます。今度美味しい蟹を食べに行きましょう。 多田菫」
葉書の最後には、彼女の住所が記載されていた。私は多田さんの葉書を読んで、目を閉じた。心がぽかぽかしている。この繋がりを、ここで終わらせるわけにはいかない。峻と瞳も、ここで繋がりの糸を切らすわけにはいかない 。
私は目を開け、コンシェルジュに言った。
「あの、もしできればなんですけど…、メモか何か、貸してもらえませんでしょうか? 」
コンシェルジュは一瞬きょとんとした顔を浮かべたが、すぐににこりと笑って「少々お待ちください」と言って、またスタッフルームに姿を消した。
少しするとコンシェル ジュはスタッフルームから出てきた。手には便せんらしきものと封筒、ペンを持っている。
「お待たせ致しました。よろしければ、こちらをお使いください」
「え、こんなに良さそうな便せん 、それに封筒まで…、いいんですか?」
「はい。お客様にはここを出る時に心残りを残してほしくないので」
「ありがとうございます!」
私はコンシェルジュからペンを受け取り、便せんに言葉を紡ぎ始めた。
「それでは、またのご宿泊を心よりお待ちしております」
ホテルの入り口まで見送ってくれたコンシェルジュは、最後に私に対して深く頭を下げた。思えばこの人が声をかけてくれなければ、私はここに泊まることはなかったし、多田さんと出会って、先日起きたことと向き合うことはできなかっただろう。
「このホテルの前に立つ私に声をかけてくれて、本当にありがとうございました。また来ます」
コンシェルジュは優しさを瞳にたたえて、私を見た。
「こちらこそ、当ホテルをご利用いただきまして、誠にありがとうございました。また一休みしたい時は、いつでも当ホテルをご利用ください」
私はコンシェルジュに礼をして、つま先を外へ向けた。鞄を左手に、右手に封筒を三通持って歩き出す。歩いてしばらくすると、町はあっという間に人で溢れかえった。すれ違う人は皆、少し歩くとすぐにスマートフォンを取り出して画面に夢中だ。
そう言えば、スマホの電源切ったままだ。私は鞄に手を入れてスマホを取り出そうとするが、今の私にはあまり必要なものに感じることができず、鞄から手を出した。私は右手に握られている封筒に目をやる。今の私に大事なものは、この封筒の中の言葉たちだ。彼らを思って、ペ ンを走らせた。
私はこの手紙を出すのが楽しみになった。峻や瞳は、もう私を許してくれないかも知れない。それでも私はこの思いを伝えたいと思った。この感謝を、この後悔を、この愛を。
私は駅前にあるポストを目指して走り出した。