「でも本当に人との関係って、ちゃんと築けているのかって、ふと思うときがあったのよね。あなたは確かに恋人のことを好きだったし、親友のことも大切だったと思う。でも毎日目まぐるしく変わる日常の中に、そうした大切な思いが霞んでしまったのね」
多田さんの話を聞いた私は、気が付いたら涙を流していた。多田さんの言葉が、声が優しくて、なんだかよくわからないけど許された気がした。
多田さんは私にハンカチを差し出す。ハンカチを貸してもらうのは、このホテルに来てから二回目だ。
「すみません。なんか心が油断しました」
「何その表現。そんなこと言って、私がそれに気づいたのは、ここに来てからだけどね」
「そうなんですか」
「うん。私もあなたみたいに、自分のせいで大切な人を傷つけてしまったことがあったの。その時、行きつけのバーのマスターからここの話を聞いて。泊まってみたら、大切なもののために時間をかけるってことがどれだけ大切か、とてもよく分かったわ」
多田さんはグラスの淵を指でなぞりながら
「ここに来てから、私、友人とは 、SNSじゃなくて手紙でやり取りをしているのよ」
「え、手紙ですか?」
「 そう。あの掲示板の真似みたいなものだけど。その人に伝えたいことをちゃんと時間を使って、考えて書くの。そうするとね、ちゃんと相手を心に留めることができて、繋がってるって実感が持てるのが、とても心地いいの」
「そうなんですか…。手紙か。最後に書いたの、中学生の時送った年賀状依頼かもしれないです」
今の私は、人とのやり取りをスマートフォンに依存していた。峻とのやり取り、瞳のやり取り、親とのやり取り、送る言葉を選ぶ時間は、すべて一瞬。相手にどんな言葉をかけていたか、思い出すことができない。
「私、やっぱり峻と瞳と、ちゃんと向き合えていなかったと思います。二人の優しさに甘えっぱなしだった。ここを出たら、二人に謝りたい」
「いいじゃない。ここでゆっくり身体も心も休んで、また相手を見てあげて」
多田さんがグラスを持つ。私も持ち上げて、二回目の乾杯をした。
あの後多田さんとは、お互いが頼んだ一杯のお酒だけを飲んで別れた。不思議な時間だった。お酒に弱い私は、あの一杯のマリブコークだけでほろ酔い気分になり、ふわふわした気分のまま自室のベッドになだれ込んだ。
朝起きてカーテンを開けて朝日をたっぷり浴びた私は、レストランで朝食を食べた。パンを食べつつ辺りを見回すが、多田さんが姿を現すことはなかった。
荷物をまとめてチェックアウトの手続きをしにロビーへ向かった。フロントへ行く前に、特徴的な掲示板をもう一度目に焼き付ける。とそこに、達筆な字で「蟹ちゃんへ」と書かれたメッセージを発見した。掲示板へ近づき、それを読む。そこには、「昨日はどうもありがとう。もし私と友達になってくれるなら、フロントで私の名前を伝えて。それじゃあ仲直り応援してます。 多田」と書かれていた。
昨日と同じコンシェルジュがフロントにいたので、あの、と声をかけた。
「チェックアウトをお願いしたいんですけど」
「かしこまりました。ここでのお時間はいかがでした?」