俺はエプロンを先生に返して、狭い「ジュースバー」のカウンターから出て行こうとした。するとすれ違いざま、渡辺にポツリと「ありがとう」と声を掛けられた。俺は面食らった。何だよアリガトウって。こっちは別に感謝される覚えは――。
出掛かった「悪かったな」の一言が何だか喉に引っ掛かってしまい、俺は結局、渡辺に何も言い返せなかった。
「5」
また猛牛の隣に戻った。猛牛は俺が隣に立つなり「スー」と言って出迎えた。それがこいつ特有の荒い鼻呼吸ではなく「お帰りなさい」とか「お疲れ様です」とか、そういう意味を込めた「スー」なのは分かったけど、別に何も答えなかった。
はぁ。それにしてもベルボーイは平和だ。客は相変わらず飲食ブース――中でも「ジュースバー」に殺到している。きっとあの中で渡辺は奮闘しているのだろう。渡辺かぁ。渡辺ねぇ。渡辺――。
「いらっしゃいませ~」
唐突な猛牛の声に俺はビクッとなった。意識は完全にワタナ――「ジュースバー」に持って行かれていた。
色黒の客がこちらにやって来る。頭にサングラスを乗せた四十代くらいの男性だ。
「いらっしゃいませ〜」
俺は客に挨拶をした。しかしどういうわけだか気が動転してしまい、まだ何も言っていない客に対して「こちらへどうぞ~」とエレベーターへ案内しようとしてしまった。
するとすかさず猛牛が「いや、お客様はまだ――」と苦笑しながら、俺の動きを止めに入ってくれた。うわッ。さすがに我ながら引いた。自分、バカ過ぎる。
そんな俺たちのやり取りを見ていた客が言った。
「何だよ。所詮ガキの遊びか」
客は冷笑しながらさらに続ける。
「一泊三千円っつーから来てやったけど、このレベルじゃなァ。どうしようっかなァ。泊まるのヤメよっかなァ」
何だこの客。まるでこちらに「お客様、ぜひお泊り下さい」とでも言って欲しそうな態度である。俺はこんな奴に泊まってほしくないから、文句の一つでも言ってやろうというつもりで客前に出た。すると猛牛が俺の態度を察したのか、愛想笑いを浮かべながら俺を遮るようにズイッと躍り出て、客に言った。
「お客様ァ。客室はシンプルなデザインですが、寝心地は最高ですよォ?」
咄嗟の言葉にしてはなかなか冴えている。猛牛の野郎、やるじゃないか。ところがこの嫌味な客ときたら、はなから俺たちを高校生として見下しているらしい。
「ああそう。で、なに。キミは客室で寝た事あんの?」
「いえ、あの、自分は無いんですが――」
「じゃあなに、キミは自分で体験してもないくせに寝心地は最高とか言ったわけ?」
「あぁ……はい……申し訳ございません……」
「ダメだよ嘘言っちゃあ。そういうのを世間で何て言うか知ってる? 詐欺って言うんだよ。まだ高校生だから世間の事な~んも分かんねぇと思うけどさ。客に対してね、嘘を言っちゃいけねぇんだよ嘘を。分かる?」
「はい……申し訳ございません……」