俺はこの客をぶん殴ろうと思った。だけど先生の言葉が不意にチラついたせいで足が動かなかった。別に俺はどうなったって構わないけど、もし怒りに任せてこいつをぶん殴ったら、きっとこのホテルはなくなってしまうんだろうなぁ。そんな考えがふと頭によぎったのが、自分でも意外だった。
でも客はそんなこちらの心情などお構いなし。どんどん勢いづいてきやがる。同じような言動をネチネチと繰り返し、頭を垂れる猛牛をいたぶった。先生はいまだに「ジュースバー」を手伝っているから、このトラブルにはまだ気付いていないだろう。常駐している運営会社の社員さんも今は事務所にいる。
畜生。俺は悔しかった。何でも殴って解決。今まではそうだった。だけどここは学校じゃない。どんなに嫌な奴だろうと、客は客だ。
尚もペコペコと頭を下げている猛牛。その度に汗が床にポタポタ落ちる。俺は拳をぎゅっと握った。畜生。畜生――ッ。
「お客様~」
俺は客に声を掛けた。笑顔で。この俺が。嫌な客に「お客様~」だって。
「お客様~。元はといえば自分のミスです。どうもすみませんでした」
頭を垂れる俺。すると今度は客の矛先が俺に向いた。
「キミねぇ。頭を下げりゃあイイってもんじゃないんだよ。高校生だから頭を下げりゃあ何でも許されると思っているんだろう。だが社会じゃあそうもいかない。大人をナメちゃあいかん」
ネチネチネチネチ。線路のように小言が続く。
「ホームページでこのホテルのコンセプトを見たんだがね。『高校生にこそ本物の教育を』だろ? ダメダメ。こんなの偽物だよ。こんな文化祭の出し物みたいな飲食店作って。所詮は学校の延長線だ。このレベルのサービスに三千円なんて払う価値も無い。だいたい今どきの若いモンは――」
その時だった。ようやくトラブルに気付いた先生が駆けつけてくれて、このクレーマーオヤジの対応に入ってくれた。
先生の第一声はやはりというべきか「申し訳ございません」だった。ペコペコ頭を下げながらも、客の言い分に「えぇ、えぇ」と真摯に耳を傾ける先生。いつもは職員室でふんぞり返っている大の大人が、自分よりも年下の客相手にヘコヘコと――俺はそんな先生の背中を見て、ようやくこれまで自分がしてきた事について深く反省した。
フロントの定位置に戻りながら俺が猛牛に「悪かったな」と呟くと、猛牛は何の事やらと目を丸くして、気の良さそうな笑みを返してくれたのであった。