「心に響いたことだけ。それを美羽の言葉で書いて」
肩をポンっと優しく叩いて椅子に戻された。
天井の木の風車が、ゆっくりと回る。
「さあ、どういう風にしましょうか」
お客さんに聞くみたいに丁寧な口調。父は私と同じ目線まで少し屈んでいる。鏡越しに目が合った。
「お任せで」
父は深く頷き、毛束をそっとつまんで内に曲げたり広げたりしながら頭を様々な角度から見た。ヘアカタログを数冊持ってくると、 私の反応を確かめながらたくさん提案してくれる。
私自身も見つけられていない“こうなれたらいいな”というぼんやりとした想いを、父はそっと掬い取ろうとしてくれる。幼い頃から、 ずっとそうだった。
「……耳の横はこんな感じにしたいかも」
父と話しているうちにイメージが膨らみ、わくわくした気持ちが心に広がっていく。
「任せて」
その言葉が。父の笑顔が。一年半前のあの日と重なった。
「じゃあまずは、シャンプーとトリートメントからね」
シャンプー台に移動して仰向けになる。耳元で響く心地よい水音。重たいものが、シャンプーと水でそぎ落ちていく。
丁寧につけられたトリートメント。ホッとする良い香りに包まれる。無言の心地良い時間。
すべてを洗い流すとクロスを替え、柔らかなタオルで頭をぽんぽんされる。
右肩に寄ったクロスの皺を父が掌でサッと滑らかに伸ばした。そんな何気ない動きからも優しさが伝わって、心が和らぐ。
スタイリングチェアに戻ると、父は真剣に穏やかな顔で右手に鋏を持ち、長い足を左右に軽く開いた。久しぶりに見る私の大好きな姿。
鋏が、動き始める。
「髪ってその人自身と常にともにあるものだからさ。頭にくっついて、いつも一緒にいて。そこに変化を加えるのが美容師の仕事で。その変化がお客さんの心を軽くするものであって欲しいっていつも思っている」
リズムよく響く鋏の音と重なるように、インタビューはゆったりと進む。
「さっきのお客さんね、実は来店したとき少し元気がなくて。だけど、他愛もない会話をしながらカットやパーマをしていくうちに、どんどん表情が明るくなっていってね。ああ、力になれたかもって、嬉しかったよ」
私は先ほどの光景を思い出す。晴れやかな、女性の顔。
「お客さん一人ひとり、求めているものが違うからね。美容室でお喋りを楽しみたい人もいれば、静かに寛ぎたい人もいる。髪質も頭の形も違う。常連さんでも、同じ心の日はない。だからずっと、答えがなくて」
答えがない。職業調べ。将来の夢の欄。
父がブラシで、顔についた髪を払ってくれる。柔らかい毛がそっと顔に触れ、私は目を閉じた。
「答えがないから、相手と丁寧に向き合って、これが最善だと自分が信じるものを差し出すんだ。美容師は髪を整える仕事で。だからこそ、そのための技術を磨くことと同じかそれ以上に、誠実に向き合うことが大切なんだよ。相手の心と、そして自分の心と」
パッと目を開いた。視界がクリアになる。心と誠実に向き合う。
「ありがとう。職業調べの宿題、できそうな気がしてきた」