「それは良かった」
父は笑顔で頷くとドライヤーを手に取り、本体に巻きつけられたコードをゆっくり解いていく。
「……美羽は何で、MIHANEに来なくなったの?」
ドライヤーのスイッチが押され、温かい風が送り込まれる。父の手が、優しく髪を掬う。
「……MIHANEに来る資格がないって思ったから」
父の手と、温かい風に包まれている今なら話せる。
一年半前。小学校を卒業する少し前のことだった。少しずつ日が長くなり始めた二月の午後。家で何気なく鏡を見たとき、自分で髪を切ってみたくなった。膨らんでいく好奇心。父への憧れ。
肩まであった髪をほんの少し切るつもりが、片側だけ変に短くなり、整えようと必死に鋏を入れるうちに私の髪はひどい状態になっていた。
はらはらと雪が降る中、ニット帽をぎゅっと深く被った頭で泣きながら走り、MIHANEに飛び込んだ。
「おお、これは豪快に切ったなあ」雪と涙で濡れそぼった私を、父はふかふかのタオルで優しく包んでくれた。
「大丈夫。任せて」温かい父の笑顔。軽やかに動く鋏。
ひどい状態だった髪を、父はあっという間に素敵にしてくれた。初めてのベリーショート。新しい自分。心にわくわくが弾ける。
「すごい! 魔法みたい」
「えー、魔法?」私の言葉に父は不思議そうな顔をしながらも、一緒に喜んでくれた。
その翌日。少し緊張しながら行った学校で、「すごく可愛い」「美羽ちゃんのお父さんすごいね」そんな風にクラスメイトたちから 次々と褒められた。嬉しいけど照れくさくて。
「お父さんに、勝手に短くされちゃったんだよね」
考えなしにそんなことを言ってしまった。
「勝手に切るなんてひどいね」「美羽ちゃんのお父さん最低じゃん」
周りから返ってきた言葉にドキッとした。
大好きな父が。魔法をかけてくれた父が。私のせいで、悪く言われている。
そんな後ろめたさからMIHANEに行けなくなった。
「私の髪、もう切らなくていいから」そんな風に父を突っぱねた。
あの時の、父の寂しそうな顔。
「……本当にごめんなさい」
「美羽は大切に思ってくれているんだな。お父さんのことも。MIHANEのことも」
私は首を横に振る。ぎりぎり目に張り付いていた涙が、頬を伝う。
「どんな美羽も。いつだってここに来ていいんだよ」
ドライヤーが止まり、柔らかいタオルが頬に触れた。涙をそっと拭われる。優しい香り。
「なんでこの店の名前をMIHANEにしたと思う?」
「……わかんない」
MIHANEができたとき、「漢字にすると美羽と一緒なんだよ」そう父が話してくれた。当時7歳だった私は、その理由を聞こうとは思わなかった。
「美羽が生まれたとき、心に羽根が生えたのかなって思うくらい本当に嬉しくてね。この子にもそんな美しい瞬間に出会える人生を歩んで欲しい。そんな願いを込めて美羽って名前を付けたんだ」
父は櫛を手に取り、髪を丁寧にとかしてくれる。
「その時にね。自分の子にそう願うのなら、まずは自分がそんな瞬間を創る人でいたいって思った。さっきした美容師の仕事の話、その真ん中にあるのはこの想いなんだ。美羽が生まれるまでは美容師として必死に働いても上手くいかないことも多くて、自分の仕事に迷ってばかりいた。美羽が大切な真ん中をくれたから、変わることができたんだ。その真ん中をずっと守っていられるように、ここをMIHANEって名前にしたんだよ。だから」
父の右手が、そっと背中に触れる。大きくて、温かい手。
「MIHANEで生まれる喜びは全部、美羽と繋がってるんだ。美羽、前を見てごらん」
心に新しい風が流れこむ。真っ直ぐに見る鏡。明るい顔をした自分と目が合う。
やっぱり魔法みたいだ。魔法の正体を知った今も。私は、そう感じる。
「お父さん。ありがとう」
「どういたしまして」父が、ふわりと笑った。
職業調べの将来の夢の欄。父がくれた美羽という名で。羽根が生えたように軽くなったこの心で。さあ、私は何を書こうか。