「その光景、ちょっと目に浮かびます」北浦はそう言って、わざと渋い顔をして見せた。
「すごく申し訳ないことをしてしまったって、その時は僕も泣いて謝ったんですけどね。結局その女の子は僕のこと避けるようになって。許してくれませんでした。でも、その大事件がきっかけで髪の毛は繊細で、丁寧に扱わなくちゃいけない大切なものなんだって、意識するようになったんです」申し訳なさそうな表情をして見せながら「怪我の功名って言っていいのか、わかんないですけどね」としょんぼりした様子の藤野に向かって、北浦は優しく笑いかけた。そして「私も子供のころに、髪のことで祖父をひどく傷つけたことがあって。いまでも忘れられません」とポツリと吐き出した。
「北浦先生のお話も、よかったら聞かせていただけますか?」藤野はそう言いながら、北浦の肩を軽くマッサージし始めた。
「さっき、小学生まではお家で髪を切っている子も多いって言ったんですけどね。私自身が、そうだったんです。すぐ近くに住んでいた祖父の家に遊びに行きがてら、髪を切ってもらっていたんです。低学年くらいまでは髪に対して、それほど意識してなかったし。前髪はすぐ伸びて鬱陶しいし」そう言って少し恥ずかしそうに笑った顔を鏡越しに見せた。
「でも、ちょっとずつお洒落したい気持ちがでてきて、前髪も伸ばしたいなあって」
藤野は小さくうなずいて、「高学年になってくると、周りのお友達とかもちょっとずつ大人っぽい髪型になってきますもんね。おしゃれな髪飾りを付けたりして」と言った。
「そう。それで、前髪伸ばしてるから、あんまり切らないでってお願いしたんですけどね、そんなのお構いなし。目にチラチラ入るの嫌だって言ってただろうって、ぱっつん」そう言いながら北浦は右手をハサミの形にして、眉の上でぱしんと切り取るように動かした。藤野は「前髪のこだわりって、特に難しいですからねえ」とうなずいた。北浦は少し恥ずかしそうにしながら「私それで、すっごく怒ってしまって。もうおじいちゃんには二度と髪を切ってもらわない! って大騒ぎ。祖父は前髪が短い方が似合ってるよ、またすぐに伸びるよって謝ってくれたんですけど……」そこまでいうと北浦は少し言い淀み、節目がちに言った。
「その時、おじいちゃんみたいに髪が少ない人には、私の気持ちなんてわかんないって言っちゃったんです。うちの祖父、髪がずいぶん薄くなっていたので……」藤野はなんと返していいか迷い、ただ小さくうなずいてみせた。
「闘病時に使用した薬の副作用で、髪が抜けてしまったんだって、後から聞いたんですけどね」そう言い終わると、北浦はふうっとため息のように大きく息を吐き出した。藤野は優しい手つきで、北浦の髪をブラシで梳かし始めた。
「今でもその時の祖父の顔を思い出すことがあるんです。悲しそうなのに、無理やり笑おうとしているみたいな……。ずいぶん前に祖父は亡くなったんですけど」そこまで言うと、北浦は黙ってしまった。藤野はその沈黙を優しく撫でるかのように、北浦の髪をとかし続けた。
「さっき話したガム事件の時、小学校の先生に『髪は女の命』だって教えてもらったんです。でも、こうして美容師になってみると、男女問わず、髪は大事なものだって実感しているんです」
「どういうことですか?」北浦は少し目線を上げて、鏡越しに問いかけた。
「北浦先生のお祖父様のように、闘病によって生じる髪の悩みを抱えている人もいれば、朝起きて、なおらない寝癖にイラつくこともある。悩みの質は全然違いますよ? でも全部ひっくるめて髪の悩みなんですよね。こんな髪型や髪質になりたいっていう理想や願望もある」
藤野の言葉を受けて、北浦は少し恥ずかしそうにしながら「確かに、そうですね。前髪の長さ1センチ、長いか短いか。たったこれだけでも、本人にとっては大きな悩みですもんね」とうなずいた。
「今回、小学生の子供たちからの質問を受けるにあたって、いろんな質問が来るだろうって覚悟してるんです」そう言って藤野は少し笑って続けた。