「図々しいお願いをしてしまって申し訳ないです。ご協力、本当にありがとうございます」
北浦美咲は何度も頭を下げる。鏡越しに見える表情は、ほんの少し泣き出しそうでもある。
「こんな大変な時期に、僕ができることならお安いご用ですよ。少しでも子どもたちが喜んでくれるといいですよね」優しい口調ではあるけれど、藤野の目つきは力強く、しっかりとうなずいた。
藤野圭太が営む美容室「サンライズ」に、「折り入ってお願いがあるのですが」と電話がかかってきたのは先週のことだ。電話口で名乗ったのは、サンライズから目と鼻の先にあるさくら小学校の校長先生だった。はて? この口調はいつものパーマの予約じゃあなさそうだ。藤野が話を聞いてみると、校長からの依頼は思いがけないものだった。
さくら小学校では、通っている小学生に向けて職業体験を毎年行っていた。小学校からほど近いパン屋や和菓子店、スーパーなどが地域一丸となって接客体験の実習を受け入れている。2日から3日、実際に店頭に立ってレジを打ったり、パンの袋詰めをしたり。子供たちにとっては、緊張感もあるが楽しみにしている課外活動のひとつだった。
しかし、今年は感染症の影響で中止を余儀なくされた。お店自体が閉まっているところもあるし、どれほど対策をしていても、心配事はまとわりついてくる。何事も例年通り、というわけにいかないことは子供たちも渋々ながらに理解していた。
しかし、自営業のパン屋や中華料理屋など、さくら小学校に子供を通わせている親御さんからこんな提案があった。「現場での職場体験はできないけれど、こんな仕事をしていますよ、と伝えることはできる。何か、動画を撮るとか、アンケートなどで協力できないだろうか?」
その申し出を受け、さくら小学校の先生たちは議論を重ねた。この状況下でお仕事をしている人たちは、今どんなふうに工夫しているかを子供たちに伝えてもらうのは良いかもしれない。協力すると言ってくれた数店と、先生たちが普段利用しているお店にも協力してもらえないか、打診してみるのはどうか、となったのだという。
「サンライズさんは、うちの先生方も頻繁に利用していますし。美容室は人が暮らしていくなかで大切な仕事のひとつだと子供たちにも伝えたいんです。子供たちの質問や悩みをアンケート用紙にまとめますので、それに回答する、といった形でご協力いただけないでしょうか?」
そういうことなら喜んで、と藤野は快諾した。
実際のところ、例年行われていた職業体験はお断りしていた。いくら注意をしていてもハサミを使うし、お客様がというより、藤野自身が落ち着いて仕事ができないためだ。
さくら小学校に勤めている先生の多くは、サンライズを利用してくれている。休日に自宅近くのヘアサロンに通いそうなものだけれど、小一時間ほどで気分転換ができるのが良いのだという。先生のほとんどが顔見知りなのだし、断る必要もないだろう。お店の形態も、藤野がひとりでカットもシャンプーも行っている完全予約制だ。感染症対策に過敏になりすぎなくてよいし、問題が少なさそうだという学校側の判断もあるに違いない。
「週明けに、北浦がアンケートを持って行きますので、どうぞよろしくお願いします」私もまた近々パーマの予約をしますので、と校長は言添えて電話を切った。