だが、この辺りは大分ましだ。海沿いは被災状況もきびしく、水の供給も足りていない。私たちシャンプーボランティアが行けるのは、山際だけだ。山は昔通りにそびえており、この土地だけをみれば、あの酷い地震が起きたようには見えない。
はぁ、ともう一度白い息を吐くと、眼前から一人の少女が歩いてきた。水をたたえたバケツをもち、靴は泥に濡れ、服も汚れていた。肌も、マスクのつけすぎでかさつき、痛んでいる。少女はひたすらにうつむいて歩き、私の背後、つまり海の方は見ようとしない。そのうちに、少女の足が止まった。もう一歩も歩けないというように、ただそこで、白い息を吐き続ける。
「ねえ。髪、洗いに来ない?」
少女が、小さく顔を上げた。長い黒髪に反して、薄く茶色がかった瞳が私を映す。
「あっちでね、シャンプーボランティアってやってるの。少しなら髪も切れるし……どう? やってかない?」
少女は、たっぷりと私を見つめ、二度三度白い息を吐いた。私は不安そうな顔をしていたのかもしれない。やがて、少女は息をのみ、はい、と小さな声で答えた。
少女――優紀と名乗ったーーは洗髪台に座った時から、体は固く緊張していた。ゆっくりと倒しながら、問いかける。
「美容室来るの、はじめて?」
「うん……。ずっと、ママに切っててもらったし。中学生になったら美容室行こうねって言われたけど……」
「そっか……」
「もう、お母さんいないし、入学式も、いつやるか分からないし……」
地震があった三月十一日は、このあたりでは卒業式のある日だったという。入学式は四月上旬予定だったが、開催のめどはたっていない。避難所や親せきの家にいる子どもが多く、集まってもらうには被災地だ。それに、家族を亡くした子どもは多く、心の準備も整っていない。
「ねえ、東京はどうだったの? 仙台より揺れなかったんだよね」
優紀は、重くなった空気を緩和するかのように、話を続ける。
「そうだなぁ。お台場のほうは津波が来たりしたけどね。液状化現象でマンションが傾いたり、停電になったり。でも、それくらいだよ。大体は、いつも通り」
「いいなあ。渋谷とか、原宿も壊れなかったの?」
「うん……。落ち着いたら、来る? 案内するよ」
優紀は初めてクスリと笑った。笑うと左の八重歯がみえて、本当に可愛い子なのだなと思う。髪は、二度洗いしないと脂がのこるほど汚れてはいたが、髪の切っ先は丁寧にそろえられていた。彼女のお母さんが、どれほど娘を愛していたかが伝わってきて、胸が苦しくなる。優紀の母親の生きていた名残が髪の先端にみえて、いつも以上に、丁寧にコンディショナーをつけた。
「だめだよ。妹たちもいるし、私が面倒みないと」
「誰か、頼れる人はいないの?」
「おばあちゃん、寝たきりだし。お父さんは昔死んじゃったし。避難所出たらね、私、施設に入るんだ。妹たちと一緒のところ」
息が詰まった。地震で親をうしなった子が、何千人もいるのだ。新聞で読んでいた事実なのに、どこか、遠い世界の話のような気がしていた。
「あ、でも、別に辛いわけじゃないよ。ママ、いつも仕事だったし。妹たちの面倒みるのも、いつものことだし。友達のマリンちゃんも一緒に入ることになったし……」
そう明るく言いながらも、優紀の目にかけたペーパータオルが、ゆるゆると濡れ始める。
「……ご飯だって前より配られるようになってるし、地震だって減ってきたし……」